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気を引く話しをするのもセックスを楽しむのも。
実のところ相手が多少好みな所があれば、当たり前のように出来るもんだと思っていた。それこそゲームみたいに。
醒めた頭で互いの出方の駆け引きをメインに楽しむ恋愛は、それはそれで有りだろうって思ってた。
だけど、それはちょっと違ったみたいだ。
検査があって病室を空けていた間に、届け物があったらしい。
サイドテーブルに置かれた紙袋を開けると、中にはCDが一枚、それと病院と同じ大学の名が入ったレポート用紙が一枚入っていた。
薄いグレーの罫線、その隙間を埋める文字、細く柔らかな曲線と、角の取り方が少し几帳面な字。俺の酷いクセ字とはまるで違う、きちんとしてて模範的で、読み易い。
ずっと真面目に勉強して来た人なんだろうなって窺がえる感じの、でも四角四面とか気取ってるのとも違ってさ、なんかかわいい感じがした。
文字に人となりが出るって言うけど、どうなんだろ。気遣うような行間の取り方、それがあの人のようでもあるし。
白衣の胸ポケットにはいつもたくさんのカラフルなペンがいっぱい刺さっている。この手紙はさ、その中のどれで書いたんだろう。
水色の細いメタルフレーム、その奥の柔和な目。
もしこの間、あなたが俺とした約束が無くて、最後の署名も無くて、同封の届け物が無かったとしても。
俺、きっと誰からかって分ったって思うよ、先生。
レポート用紙のメモには、看護師さんからはもう聞いていたホールにあるピアノの使用許可の方法とか、退院前に取れる外出許可について事が書き添えられてあった。
貧血が酷くてついこの間迄動けない時間が長かった俺に対する気遣いなんだろうか。ピアノに触る事が出来なくて辛かったんじゃないかっていう?
そう、彼は俺がスポイルした事を知らない。
でも、と袋の中のCDを取り出しながら気付く。彼が俺の事情なんて何も知らないように、俺が彼の何を知ってるっていうんだっていう事。
ガラス越しに観た遠くを見る彼の表情。
具体的に彼について知ってる事なんて殆どない。
でも、そんな事はどうでもいい事なのかも。
プレイヤーにセットしたCDのタイトルを見て思う。
”THE KOLN CONCERT”
宙に消えてしまうはずの音を捉まえた、完全即興演奏のコンサートを記録した傑作だ。無から有へと変化質続ける、輝けるその一音一音。
ヘッドホンから広がるピアノの音につられ、耳の奥から遠い記憶が開かれて行く。
もっともっと子供の頃、何の理由か忘れたが、母の昔馴染みがオーナーをしている店へ連れて行かれた事があった。そこは生演奏を聞きながら食事が出来るレストランで、毎晩様々な楽器のミュージシャンが日替わりで食事をする人達の傍ら様々な曲を演奏していた。
俺がジャズってジャンルのピアノを初めて聞いたのは、そこでだった。
クラッシックとは違う、自由で創造的な張り詰めた即興の演奏、旋律の危うさ、そして豊かさ。
今迄知らないでいたものだった。
知らず、聴く端から膝の上で指が踊り出していた。
俺がしたいのは、本当はこういう…
そう思ってふと母の顔を見上げてみれば、俺とそっくりの彼女の細く形のいい眉は軽く顰められていて。その表情を見て。
限りなく美しく、自由で、そして悲しい。耳の奥に広がり零れ落ちて行った音の粒。
打ち消された思い、知りたかったけれど。
そのまま、失われてしまった。
細いフレームの眼鏡の奥。
あの人は目元に朱を刷いて、はにかむ様に笑っていた。
捉まえたりしないと思いつつ、逸らさないで、と俺はその時強く願い。
君、自身の音。俺、自身の音。
そう言って彼が見詰めた視線の先は真っ直ぐで、その落ち着き先は俺の心の奥深くの、今まで自分すら知らなかった場所だ。
気が付けば、その落ち着き先の感触を、俺は繰り返し転がして味わっている。
届くべき所に落ち着いたというその感じ。知ってしまったその感触を無視して無かった事には、多分もう出来ない。
瞬間引き合ったのだと、そう感じたのが俺だけじゃなければいいと、そんな風に初めて思った。
『好きなことで、自分のやり方で表現出来る、限られた人しか持てないその自由を大切にしてください。』
手紙の最後にはそう書かれていた。
色んなものから解き放たれた感じがしてた。
上手ね、といつも褒められて来たし、他の賞賛の言葉だってこれまで幾つも貰って来たのに。
なのになんなんだよ。この人の、ただ、走り書きみたいに書き付けてくれただけのその言葉が、こんなにも嬉しくて、こんなにも温かく感じるなんて。
弾きたいって思った。ピアノを。
誰かに何かして貰いたいためじゃなく、自分のために弾きたいって思った。
好きなものを、好きなように、好きなものには素直に。
そこにゲームの余地なんていらないね。でも、俺はそうじゃないやり方を、多分今迄出来ないで来た。
だから。
だから教えてよ、先生。大切にする仕方を、もっと。
それでもっと、色んな事を。
もっと俺に気付かせてよ、先生。
窓の外にはきらきらきと朝陽に輝く水面。
入院生活の終わり頃、きっかけを与えられ教える事になったきらきら星のレッスン。
モーツアルトが母に捧げた煌く丸い音の粒の誰もが知る輝ける楽曲、それを辿る小さな手のお手伝いは、当初不純なきっかけで始めた事ではあったけど、これはこれで俺の気付きになったし、楽しむ事が出来た。
彼女の小さな指がだたどたどしく鍵盤に触れていた。俺の初めての教え子。
誰もが初めはそうであるように、自身がメロディーを紡げる事がシンプルに嬉しくて、上手く行かなければ癇癪だって少し起した。
だけどそれは皆が通る道で、完成して人に聞いて貰う事が出来るようになればとても誇らしい。
それを見ていてなんだかこっち迄同じような嬉しい気持ちになってしまったり。そして色々思い出した。俺だって初めはそうだったなって事とか。
いい経験になったんだと思う。
子供に接する仕事を選んだ彼の立場も少しだけだけど分ったような気がした。そんなきっかけをくれたここのスタッフに感謝、自分で選ばせてくれた先生に感謝だ。
相変わらずふらふらとナースセンターに顔出してお姉さん達を冷やかしたりしつつ、時々先生の笑う顔も見に行ったり、話しをしたり。
入院中に嵌った漫画をもそろそろ読み収めかなと夕方の談話室に通ったりしながら、空き時間に新しい楽曲の譜読みを始めたり、実は苦手の英語の勉強も先取りして始めたり。
検査があって結果は良好で、週末の外出許可も取って、少しずつ。
少しずつ退院までの予定が近づいて行った。
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