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病院を去る事を知った日、小児科の小さな教え子には少し泣かれた。
発表会は彼女にとって満足な出来で、本人も回りも皆が楽しめた。だけど。
俯く小さな頭を見下ろし思う。退院する事がいつ出来るか分らない彼女に俺は少しの希望を与える事が出来たのだろうか。
また会いに来るよと告げたら、練習頑張るね、と彼女は小さく笑って答えた。
半年近くお世話になった病室は既に整えられていて、もはや他人の部屋のような佇まい。
荷物は家の者が先に運び出してしまった後で、手にした紙封筒にはCDのクリアケースがひとつだけ入っていた。
退院する日には挨拶に行くよって冗談混じりな会話のついでに彼に伝えてあったけど、果たして会えるんだろうか。
患者の誰かに急変があったりすれば、会えるはずがない。なのになぜかその時、俺は賭けてしまったんだ。
先生、会いたい。
昼間の出勤だと聞いていたけれど。
医局を覗いたら、こちらに背を向けてデスクに座って何かの書類を確認をしているあの人を見つけた。
「先生、今いい? 」
衝立から顔を覗かせた俺の呼びかけに彼はふと顔を上げ、掛け時計を見た。
「そうか、もう時間か。そろそろ来るかなって思って資料整理してたんだ」
先生、そんな風に言ったら。
俺と約束してくれていたんだって、思ってしまうじゃない。
白衣のポケットにはいつものカラフルなペンがいっぱい。眺める横顔の浅くかかった眼鏡のフレーム。
書類をファイルに納めながら彼はこちらを向いて、俺に向けるいつもの笑顔見せた。
「しかし、すっかり外の人って感じだね」
「何ですか、その外の人って。あー…、服の事 ? 」
まぁまぁいけてるでしょ、って嘯けば、クスクスと笑ってご謙遜を、と返す彼の眼差しはいつもと同じに優しい。最初に会った時もこんな風に穏やかな微笑み方をしてくれていた。
これ以上無かった空虚な気持ちでパジャマを羽織ったふて腐れの入院患者だった俺と、折り目正しく清潔な白衣を着た眼鏡の優しい病院の先生。
思えば最悪のコンディションだった。今俺はその時と違ってきちんと毛先まで髪を整え、計算されたビンテージの柔らかい皮のライダースジャケットを羽織って彼の前に立っている。
「先生の私服って、センスはどんななの? 」
「うーん、秘密」
「子供のお医者さんが子供の質問に答えてくれないんですか 」
「そっちで子供と張り合っても仕方ないしなぁ、って。答える程のセンスがないんだよ」
「嘘」
「ご想像におまかせします」
子供って線引きをされてしまった。俺がそうさせたのか。
センスがないと言った彼の、健康サンダルなんて履いてるのを見た事ない、いつも磨かれた靴の足元を見る。
胸に刺したいっぱいのカラフルなキャラクターのペンは子供受けするためのものだろうけど、そのあなたの顔に掛かる、水色のメタルフレームを冷たい感じ無しに装える人ってそうはいないじゃない。
白衣を脱いで、整えたその前髪を下ろして、眼鏡を外したら。
単純に見たいなって思った。外の彼を。
「顔色が良くなって何よりって事だよ。ともあれ、退院おめでとう」
「はい」
目の前の白衣の彼に視線を戻す。
色々お世話になりました。彼の言葉に、そう殊勝に言って俺はぺこリと頭を下げた。
「うん、良かったね。無事に退院が出来て」
その時何が起こったのかって思った。
彼の方にしてみれば、それはいつもの仕草だ。きっと患者の子供の頭に、いつもこんな風に触れているんだろう。
だけど俺にとってはこんな風に人と触れ合った記憶なんてすぐに思い出す事が出来ないほど遠く、だからそこだけ無重力になったみたいな感じがして。
頭を撫でて下ろそうとした彼の手を、俺はつい掴んでしまった。
触れられて、やっぱり、って思ったんだ。
そうか。ずっと俺が欲しかったのは、って。
「あ。あぁ、ごめん。つい、いつもみたいに」
「違う」
掴まれた腕を上げたまま、俺を見上げる先生。
面にさっと刷けた淡い朱の色。
眼鏡の奥の、優しい目には俺が真っ直ぐ映っている。だからつい、深く見詰め入ってしまう。
無理に捉えないから、なんて以前は思ったくせに、今は捉えて離したくなかった。
『鍵、かかっていないから。どうぞ』
その言葉にそっと、背中押されるようにあの時俺は鍵盤蓋を開けた。
ねえ先生、あの時みたいにそっと、俺は背中を押されてもいいの。
初めて触れるその手の感触は思ったより硬質でしなやかだった。小さな命に触れる指。体温で境目が曖昧になる。
薄く開いた唇に言葉は象られない。伏せないでいるその目が揺れている。揺れて、落ちてしまえばいいのに。
されるままでいる彼の手を、握りこむように包み込んだ。包み込んで、それで俺は気付いてしまったのだ。
彼の薬指の根元、そこに細く指輪を外した跡が付いていた事に。
その跡を指先で辿ると、ピクリと彼の手が揺れた。
「ごめん。子供みたいな扱いだったね。良くなかったな、もう大人になる年なのに」
「高校生は大人?」
「いや、子供だけど君は…」
「大人だったら、いいの? 」
大人だと思えたら、あなたは許してくれるの。
線引きをしようとする彼が一瞬目を見張った。
「先生、俺」
「この後、これ持って外来棟へ行く用事があるから。ホールまでお見送りするよ、行こう」
距離を詰めようとした俺の手を緩く振り払うと先生は立ち上がった。
一瞬迷うように揺れた眼差しは、水面に風が吹いた時のように消え去ってしまった。
歩幅を合わせて、病棟の中を私服で先生と歩く。
顔上げて、笑って、何を話したっけ。
ホールに着いて紙袋を差し出し、借りっ放しになっていたCDを返そうとしたら、餞別に持って行きなさいって言われて二人の間でケースの遣り取りをして。
クリアケースの幅は、約14センチ。
さっき俺の頭を撫でた手、触れ合うには遠くもどかしい距離。さっきはもっと近く感じられたのに。
「じゃあ、元気で。外来に来たら顔出しなさい」
先生。
笑んだはずの目を、今どうして伏せたの。
いつもみたいにどうして真っ直ぐ映してくれないの。
隠さないでよ。そんなの社交辞令って分ってるよ。
ケースから離れて行く指、翻る白衣の裾。
このままここで別れたら。多分この人はもう遠くへ行ってしまう。
それで俺は、もうこの気持ちのまま、この人と二度と会う事は出来ないのかも知れない。
それで、本当にいいの?
「先生」
やっぱり呼び止めてしまった。
「また会いたい。病院の中じゃなくて」
伏した瞼が上がったその隙を捕まえて。
そのまま。
伏せないで、そのまま俺の目を見て。
「患者と医者でもなくて、子供でも大人でもない俺と。会ってよ、先生」
それで、俺はその人の手を掴んだ。
さっき俺の髪に触れたその手をもう離しちゃいけないって思った。
ピクリと揺れたその左手の薬指の意味も、普段はプラチナの指輪が嵌っているんだろうって分ってた。だけど。
俺にはそんなの、関係なかった。
俺の退院と同時に、母は父と離婚した。
『自由に生きなさい』
知ってたわ。知ってて押し付けていた、ごめんね。
そう母は言った。
全てが壊れて新しく始まった日。
母は、銀座の女に戻った。
病気とはいえ、年間三分の一以上の欠席、ダブりが決定した時点で、俺はそれまで通っていた音楽エリートの学校を辞め、別の学校に転校する決心がついていた。
少し普通の生活をしてみて、自分の進む先を見詰め直す時間が欲しかった。
音楽は好きだ。ピアノも好き。でも、少し離れて見える事もあるだろうから…
たとえそれしか能が無くても、迷いなく俺があの人の前に立てるように、俺は自分の道を自分の意思で決めようって思ったんだ。
誰かに囲われて世話されたままの鳥じゃなくてね。
好きな事に、素直にね。
母が権利を買った店の一つで自由に人に聞いて貰うピアノを弾き出したのがその後の事で。
先生に奥さんがいて、それを承知で口説き落として、更にそこに事情があったのを知ったのはまたその後の事で…。
二回目の着信コール。
彼が辿り着く迄の時間を見計らって、カフェ・オレを注文しておく。
少しして、通り過ぎた見慣れた影が店の扉を開いた。
「待たせたね」
「ううん、お疲れ」
会いたかった。と彼を見て思う。
細められた柔和な目の奥。
「有難う、今日はちょっと忙しかったんだ。でも君に会えたから」
ふっ飛ぶ、そんなのも。
そんなセリフをさらりと言って、いい香りだ、とカップに鼻先を燻らせ彼は柔らかく笑った。
だけど充血した目元に疲労が滲んでいるのが分かる。ちょっとなんて言ってたけど、本当はちょっとどころの忙しさじゃなかったんでしょ。
隣のスツールに座り、彼は掛けていたいつもの眼鏡を外して眉間を軽く揉んだ。
外すとよりよく分る、彼の優しい目元。でも今日はいつもより瞼が少し腫れぼったい感じ。いつもの二重が何だかぽってりとして見える。
仮眠が殆ど取れなかったのかも知れない。だから優しく見える目元がいつもに増して和やかな感じで。
うん。
でも、それも、かわいいけど。
「やっと一息ついた」
持ち手のないカップを両手で温めるように抱え、先生がまた微笑んだ。
きらきらと輝く水面。
今日はこのまま、気持ち良く晴れたいい日になりそうだ。
この後ここで朝食をテイクアウトして、俺が先生の車を運転して。
早く先生の部屋に行きたいって思った。
それで、部屋に行ったら、彼の体をゆっくりマッサージしてあげようと思った。
それからシーツに包まって。
眠る迄、この人を抱いていてあげよう。
end.
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