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プライドの高いヤツ、性格のキツイヤツ。
皆が皆そうだって訳じゃないけど、一つの事で身を立てようという連中が狭い門の前で凌ぎを削る訳だから母が言った通り、ただの弱い人間では潰されてしまう。
だってスペースが足らないんだからさ。
無邪気でなんていられなかった。
回復を待つだけの入院患者の午後は暇だ。
明るく暖かい日だったから、中庭の芝生の上で持ち込んだ古いCDを聞いていた。
イン・パラディスム、ピエ・イエス。
死は開放。静謐な癒しの教会音楽。
18歳の男子が明るい昼下がりの庭で聴く、永遠の楽園の棺の中の眠り。
こんな場所でこんな曲聴くなんて、病んでたのは体だけなんかじゃないだろうって?
古典は苦手だった。モーツァルトは特に。
『プライベートで聴きたくないなんて思うようじゃ、お終いだな』
セックスが終わったベッドの上で、そうあの人は言った。
吐き出された紫煙が部屋の中を拡散する。鼻を掠めたその乾いた苦さ。
彼方が教えたその味と痛みと、快楽、音楽の高み。
ねぇ、彼方は。
俺が壊れるって、分ってた?
的確な教え、チャンス、彼方は教師として色んな物を俺に与えてくれたけど、助けの手を差し伸べてくれようとはしなかったね。
芸術品を扱うようなその手付き。
抱かれるこの体に触れた指にも唇にも、確かに与えて貰ったよ、官能は。
だけどね、俺は癒された事なんて無かった。
彼方は。
俺の可能性を愛しただけで、俺自身を愛してくれていたって訳じゃなかったんだ。
得るものがあったから、与えられた愛。
でも、それはお互い様か。
病室で倒れて眠る俺宛に届いた花束とメッセージ、それは彼方の代理人が選んだ物だったよね。だってさ、彼方が選ぶわけもないよ、あんな種類にあんな色の花。
思いやりを持って接しようとしない人間が誰かに積極的に愛されるわけもないんだ。価値が失せた俺になんの用も無くなったのと同様、彼方を利用する価値ももう俺には無くなったって事だろ。
だから、助けて欲しいなんて、ましてや。
「いつもの所のだろ。殺風景な部屋に彩りをどうも」
試そうなんて思った訳じゃない。
その花屋の名前は発表会の御用達だったはずなのに。
ラベルが違う事に俺が気付かないはずないだろ。こんな手違いをするなよ。
「少しは気が紛れるといい」
温かみのない頬に触れた俺の好きだった器用な指と通り過ぎた視線。
偽りの会話にバレた嘘。
花瓶の中身はすぐに交換してもらった。
だから、本音なんて。
聞こうとも思わなかった。
昼下がりの明るい死だ。
折り重なったボーイソプラノ、コーラスが途切れたその時。
吹いた風に木漏れ日がさわさわと揺れ動いたその先の、ふと目を上げて見た建物の窓ガラスに、白く頼りなげな影が映っているのが見えた。
… あれは、あの小児科の先生じゃないか。
ぼんやりした窓ガラス越しに佇んで、彼はどこを見詰めていたのだろう。
そんな、表情を無くした顔で。
眺めている間に、ふいにその影は消えた。
暫くして彼が渡り廊下をこちら側へ歩いて来た。
さっきの雰囲気はそこにもう無い。ほんの数分前の事だけど。
消え去った表情、その輪郭が壊れかけ寸前のように脆く危うく。
なんだったんだろう。
目で追いかけたままでいた俺に気付いた彼と目が合う。
あ、ほら、その感じ。
この間もそう。何でなの、ふぃって一瞬退くみたいな。
「先生!」
俺は意識的にニコリと微笑んで彼に声をかけていた。
「…やぁ。いいね、日向ぼっこかい?」
「うん、気持ち良いよ、ここ」
話しをしたいなんて特に思った訳じゃ無かった。でも気付けばこうやって声をかけてしまっている。退かれて押すなんて、そんな単純さは俺の辞書に無かったように思うのに。
「先生も少しどう?」
彼の眼鏡の奥の目がちょっと丸くなった。それから、細く柔らかに微笑んだ。
「何を聞いてたの?」
「教会音楽集」
「へぇ… 。え」
隣りに腰を下ろした先生は、思いもしなかったって顔で次の言葉を探してる。
「それは。何ていうか。… 渋いね」
ピュアな反応というべきなんだろう。そうだよな、普通は俺みたいな年頃の奴がこんなの聴いてるだなんてそうそう思わない。
「疲れちゃってるんです、俺。何ていうか、こう、癒されたいんですよね」
にっこり笑って誰にでも好かれる計算済みの首の傾げ方をしてみる。
「疲れちゃってるって、君みたいな若い子が言うなよなぁ… まぁ、入院に飽き飽きしてるってところだろ?経過はどう」
「調子いいですよ。まなみちゃんのレッスン終わった帰りにナースセンター顔出すくらいには」
「で、癒されてくると。小さい彼女が知ったら機嫌損ねそうだな。そんな感じで看護師口説き回らないようにね」
「いや、お菓子たかりに行ってただけですけど」
と、いうのは口実で。
「なるほど、そーですね、そうやって甘えてみるって手がありましたね」
「業務に色々と支障が出そうなので止めといて下さい。洒落になんない。婦長に怒られちゃうよ」
知ってるよ。先生と時々話ししているのを見てる。お母さんみたいな人でしょ。
あの病棟に行って白衣が見えると、自然に目が探してしまうんだ。
「先生が入れ知恵したんじゃん。じゃ、怒られたら葉山先生に教わりましたー。ってチクっときます、軽く」
「えっ、じゃあ僕は恭司君に嵌められました。って言い訳しときます、軽く」
「は? 子供かよ先生」
「違うよ、僕は子供のお医者さんだよ」
くすくす、って笑った眼鏡の奥の目は優しい。
そうだった、この人は子供のお医者さん。
伸びやかな昼下がりの、適度に温かく気持ちのいい風。
訳の解んない軽口も叩けてる自分にびっくりだ。
首に掛けてたヘッドホンを外そうとして、先生が言った。
「そういうミサの曲?でも聞いて悔い改めていて下さい」
「まだ悔い入る程の事してないよ。好きで聞いてただけですから」
「僕も好きだよ、そういう曲」
「え、興味あったんですか?」
「興味っていうか、カソリックの学校出身だから少しは知ってるよ」
「へえ、じゃあ賛美歌とか歌ってたんですか、天使の歌声で」
「いや、まさか」
目元にさっと捌けた淡い朱の色。
それではにかむように笑う、この人は。
「歌は苦手。どっちかって言ったら僕は音痴なんだ。でも聴くのは好きだったよ」
昔ね、と彼が言う。
「留学していた時の事だけど、日曜になると教会から路地裏迄賛美歌が漏れ聞こえて来たりして、それにつられて建物の中に入って行くと、音が石造りの壁に反響してね、広がって響いて、段々に消えて行ってさ… ただ僕は聞いていただけだったけど、何か気持ちが落ち着く感じがしてね。あれは癒されたって言うんだろうな。いい時間だったって思う」
「許しを請うんですよ」
「え?」
「あそこは許しを請う、癒しの場なんでしょ。俺はミッション系じゃなかったから教義とか説教とか良く知らないけど、例えば葬式の時に使ったりする曲は自然それを目的に作られてる物が多いんですよ。だから先生が雰囲気で感じたのはそのままで正解なんじゃないですか」
「癒しと、許し? 」
「うん。そういうの、悲しい時には欲しいものじゃない?だって天に昇って行く人を見送るなら、無駄にこっちで悲しみ煽ってしまってもね」
例えその行き先が天国じゃなく地の底であっても、行く人は行ってしまうのだ。
だからこっち側で残ってしまった行き場のない様々な気持ちは、反芻したとしても昇華させてあげた方がいい。そして縋るのだ、その手立てに。だって失った物は戻って来やしない。
−僕は、何を失ったか。
「そうか、そうやって気持ちを浄化したりする効果もあるって事なのかな。うん、確かにあの時は… 勉強も言葉も壁が高くって、僕も色々いっぱいいっぱいだったから。なるほどね、ちょっと参っちゃった時には、そういう手立てを借りてみてもいいのかも知れないな」
そう言って小さく彼は笑った。
この人は、大学病院で小さな子供の命を預かっている人だった。
そして、ここは助けを求め入っても、全ての人が元気になって出て行くばかりの場所ではない。毎日誰かが笑って、誰かが泣いている。
さっき先生はガラス越しで無表情で佇んでいた。
何があったのか聞かないし、この人も話したりしないだろうけど。
本来、とても素直な人なんだろう。
ただ、あなたは大人でお医者さんだから、ここで、例えば悲しみを感じても思い通りに吐き出す事なんて出来ないんだろうね。
「これ、貸すよ。先生」
CDを取り出し、パッケージに仕舞い込んで差し出した。
「他のに比べて聴き易いと思う。CDだから、帰りの車の中でも聞けるでしょ」
「いや… いいの?お気に入りなんだろ?入院患者の数少ない楽しみを奪えないよ」
「じゃあ、何か代わりに他のもの貸してよ。俺、入院突然だったし所持品も少なくてさ、実は今ここにあるの全部聴き飽きちゃってて」
差し出したケースを見て、俺を見て。見つめ合って、捉まえた。
ほら、そのちょっと戸惑うみたいに揺れる瞳。
それで、瞳を通り越したところで引き合うような感触。
外したり、見て見ない振りばかりして来た。
だけどお願い、退かないで。彼方を無理に捉えたりしないから。
『僕を見て、笑って、お願いだから』
数秒の事だったけれど、俺が他人に自分からそんな風に思うなんて。
「君の耳に合う物を、僕が選べるのかな・・・」
そう言って目を伏せ彼が苦笑いしたから、
いいんだよ、何でも。むしろ俺の知らない物を教えてよ、と言った。
実際知らないものの方が断然多いから大丈夫だよ。
クラッシックばっかりやって来たからさ。
聴かないっていうんじゃなくて、知らないんだ。
うん、知らないんだよ。
音楽だけじゃなくてさ。失う程も無く、知らないんだよ、色んな事を、本当に。
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