River.



-2-




それでも、次第に体の方だけは勝手に回復して行く。
空っぽになった心の方は置いてきぼりのまんまで、西洋医学万歳。

絶対安静の名の下縛り付けられてたベッドから起き上がるようになって体が動かせるようになり、点滴を外す時間が長くなった頃、筋力が落ちてしまうから少し体を動かしましょう、そう言われて、部屋の掃除をする間外に出されるようになって始めて自分の居た病院がどんな所だったのか知った。
コンビニみたいになんでも揃う売店、低カロリーでベジタリアン・減塩食その他対応のヘルシー志向なレストラン、小洒落たカフェに結婚式のブーケ迄出来上がって来そうな花屋さん、ちょっとした本のコーナーに娯楽室。

「何でもあるんだな」

担ぎ込まれたまんま俺が半強制で入院していたそこは、父親のコネクションで捩じ込まれたんだろう、とある大学病院だった。
倒れてから暫くは個室のベッドの上で身動きも出来ずに絶対安静、点滴だらけで勝手に動く事も出来なかったから俺は他の入院患者の顔も病院内に何があるのかも随分時間が経つ迄全く知らないままでいた。例えば入院していた内科の病棟が、通路で小児科と繋がった造りになっていたという事とか、その辺りの娯楽室で週間漫画雑誌のトレードが発売日には頻繁に行われてるって事、とか。検査で動く以外のルートの事って、知らないまま退院してしまうのが普通だよな。
地下の階に時々内部や外部向けに催し物が開かれる小さなホールにピアノがあるって聞いたのは、そうやって出歩いて他の入院患者と話をするようになった退院間近の頃だった。

そこで、俺はその人と出会った。

その場所にはふいに紛れ込んでしまったと言っていい。
下りのエレベーターに気付かず乗って降りた先、温かみのある色で統一された無人の室内。奥の壁際にアップライトが見えた。
あれは。
かつて俺が毎日触れていた、一番最初に親しんだのと同じ国産メーカーのピアノ。

パブロフの犬かよ。

見た途端、俺の指がピクリと動いた。
それでパジャマのまんまひとり苦笑いをした。
明るく清潔な室内、弾く人も誰も居ず沈黙しているピアノ。
そこにあるんだとは聞いてた。だけど、俺は行ってみようなんて思わなかったのに。

キーを隠して黒く艶やかに光る鍵盤蓋。

それでも足は勝手にここまで動いて来てしまった。
心のどこかが急いていた。
近寄り、俺は子供の頃したみたいに指先でそのつるりとした感触を確かめるみたいに撫ぜた。

「弾いてみる?」

突如掛かった声。
振り向いた先に見えたその人の白衣のポケットは、差し込まれた無数のカラフルなキャラクター人形がついたペンでパンパンに膨れていた。
眼鏡をかけた白い面、よくいるタイプの若い大学病院のお医者さん。でも目の奥がなんだか柔和な感じ。なんだか子供好きのしそうな。

「あのね、昼間のこの時間なら音を出しても大丈夫だから」

そう言って、微笑む。
広がる警戒心を自然に解くような微笑み方だった。
聴診器の下のIDタグには葉山という名前と小児科の文字が見えた。
それで、
ああ、そっか。この人は子供のお医者さん。

最初の印象は、そんなだったかな。

「鍵、かかっていないから。どうぞ」

そう言って、ピアノの前で躊躇してた俺を彼が促した。
思えば、母親と先生以外の誰かに言われて弾いてみるなんて、そんなのした事がなかった。
なのに何で俺はあの時、彼の言葉に素直に押されたんだろう。気付いたら目の前の鍵盤蓋を開けていた。
そして現れ零れた、ひどく鮮やかな鍵盤の白と黒。
人差し指で叩くと正しいAの音がホールに響いた。

突如、湧き上がった感覚。
何かが、体の奥底の眠った部分を呼び覚まし駆け上がって行った。
そうして零れ落ちて行く、譜面のない音楽。

即興でこの指が奏でたのは、この間まで俺が死ぬ気で練習していた課題曲なんかじゃなかった。


確かあの時、

「… きらきらした、羽が」

それから、

「軽々しく… すまない、失礼だった」

そう彼は言ったように思う。

軽々しく… ?
湧き上がった感覚の波が過ぎ去った後、呟かれたその声に初めて俺は顔を上げて彼に答えた。

「軽々しくも何も無いですよ。 ただ俺」

軽く握った掌を見詰めたまま俺は言ったと思う。

「ただ弾きたくて、弾いてみただけ」

目的も無く、ただ弾きたくてピアノを弾いたんだ。
熱かった。指と体が。いつ頃から忘れてたんだろう、この気持ちの開放感を、いつから俺は忘れてしまってたんだろう。

「そう」

彼は言った。

「その、とても… とてもきれいな音がした。なんて言う曲かも知らないけれど、とても」

「感想なんて。いいんです、ただ即興で何のコンセプトもなく、思いつきで勝手に弾いただけだから」

本当にただの思い付きで、勝手に。
本当に勝手に音が降りて来た。

「じゃあ、その音は君自身なんだね」

「俺の? 」

「うん、君の。とても、とてもきれいな音」

俺は
きれいなんかじゃない。

咄嗟に射出されたの否定的な感情の矢は、そのまま無防備な彼を射抜いてしまったのかも知れない。
戸惑うように揺らぐ彼の眼差しが凍った。
それから、柔らかに見えた目元に薄く朱の色が差した。
その、その時の彼の表情が。

「あら、葉山先生、そんなところで独り占めですか? 」

通りがかりに声を掛けたのは顔見知りの緑山さんという年配の看護師だった。
視線を繋いでいたのは、ほんの数秒の事だったと思う。
その声が聞こえた途端パッと弾けるたみたいに彼は俺から目を逸らし、何事も無かったように元の顔に戻った。
ねえ、この人今俺に。

「向こう迄聞こえて来てたの。もしかしたらって思ったらやっぱり恭司君だったのね。 とっても素敵だったわ、本当さすがねぇ」

そう、普通の人はこんな風にさらりと言ってのける。素敵ねぇ、さすがねぇ。型通りの幾通りにも使える賛美の仕方で。

「勤務中に一流のピアニストの卵の演奏聞けるだなんて。目が喜ぶのは眼福、耳が幸せっていうこういう時は、なんて言うんですかねぇ、先生」

「え? 」

「あらやだ、ポカンとして。もしかして、ご存知無かったんですか」

そう言って彼女が俺の簡単な経歴と事情を話した。
俺は無言でその時の様子をただ見てた。
ただ、その人の表情が彼女の言葉で刻々と変化して行く様を。

「それで彼に弾かせちゃったんですか。何も知らないって凄いですね、先生」

「弾きたそうに見えたから。軽い気持ちで言ってみたんだよ」

「いきなりお願いして中々弾いて貰えるものじゃないですよ」

「やっぱり。そうだろうね」

「でも弾いてくれちゃったんだ? 」

二人して俺を見る。
いや、こっちに振られても。
それから、彼女はちょっと考えてからこんな事を言った。

「いい機会じゃないですか。あの件お願いしてみませんか、今度のまなみちゃん達のお誕生会の件で… 」

葉山、と呼ばれたその先生はまなみちゃんっていう女の子の担当医なんだろう。看護師の口ぶりから、その子は長期入院しているやや深刻な病気の女の子であるらしい、という事が何となく伺い知れた。
時々、この病院ではそういった長期にわたる入院患者の慰労目的で定期的な催し物がこのホールで行われていた。通常外部の団体や専門の業者に依頼をし、今回は、その子のためにちょっとしたコンサートの企画が立てられているらしいのだが。

「そうしたら、自分がピアノ弾いてみたいって言うのよね」

病院で七回目の誕生日を迎えるピアノの好きな女の子。でも弾いた事のない女の子。

「全然、経験がないの?」

「そう。年の殆どを病院で過ごしている子だからね」

「弾いてみたいけど弾けないんだ、その子」

「機会が無かったからね」

そう、機会が与えられたからこそ。俺は人より弾く事が上手くて、それで倒れてここに居る訳だけど。

「なので、どういう形かはこれから相談だけれど。ほんの少しでいいの、恭司君もう少ししたら退院でしょ。担当の先生の許可が出たら、ちょっと協力してみない?」

確かに、元気にはなって来たけど俺はまだ退院出来ない。かと言って、ベッドに縛りつけられたままの状態でもなくなった。
ようするに、その子を元気づけるための会に俺も一枚噛んでみないかっていう話だ。入院患者に? 社会性のリハビリも兼ねた偶然も装う俺にも合理的な話し。

「ちょっと待って、確かに彼が協力してくれたら、まなみちゃんは喜ぶだろうけど」

話しの流れを止めたさっきとはまた違う表情。
真摯な顔で彼は俺を見た。

「さっきは君も気紛れに弾いてくれたのかも知れない。だけど子供のお遊戯の伴奏は話が別だろ。そんなの君が引き受けられるかい?面倒だろうし、迷惑だと思うならはっきりそう言ってくれて構わないんだよ」

ああ、その顔じゃないよ、先生。

確かに、そんなの以前の俺なら見向きもしない話しだった。
子供に興味もないし、人に教える事にも興味がない。
でもその時話しを繋いだのは多分、さっきのあの表情、ただ、俺から視線を外す前のあの表情をもう一度確かめたかったから、ってそれだけの事だったんだと思う。

まてよ、確かめたいって。
確かめて、どうする。

「いいえ、構いません。俺もいい加減退屈し始めてたところだし。たまに人の役に立つのも悪くないですよね」

おいおい、退屈し始めてたからたまに人の役に立つのもいいですよって?



それ、俺の口から出た言葉なの?





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