River.



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土曜の朝は人通りが少ない。

飲み屋街からは遠く、少し行くとオフィスビルが立ち並ぶ早朝のこの街のカフェスタンドは、朝の散歩途中や仕事明けの気だるさを残したまま立ち寄ったお客が孤島のように点在し、到って穏やか時間が流れていた。

朝日に揺れて漂う広い運河を挟んだ向こう側には大きな病院が見える。
緑の植え込みにぐるりと取り囲まれた白亜の箱、壁面を埋め尽くす無数の小さな窓。
一年前、そこに俺は倒れたまんま入院していた。
空っぽな心のままあの病室の窓から毎晩眺めていた。
その、暗い夜の河の流れを。

朝陽を浴びた水面はきらきらと輝いていて、とても穏やかだ。
日の当たるこの場所から眺めていて、改めて思う。
もう、あそこからあんな風にこの河を眺める事は無いと良いって。


カウンターに置いた携帯にメールが来るのを待っていた。
いつも着信は二回。

一回目は「仕事が上がれそう」
二回目は「今、そっちに向かってるよ」
 
音も無く明滅した青いライトの色はあの人からだけのものだ。
ディスプレイに映った、愛しい人の名をそっと指先で撫ぜた。
昨夜はどうだったろう。
夜勤明けの彼とこうして週末、ここで待ち合わせをするのは何度目だろう。
急患が入ればすぐに会えない事もしばしばだし、結局会う事すら駄目になったりもする。それでも、待っていたいと思う。
顔を見れるだけでもいいと思う。
そう、俺に思わせる人。
 
大好きだよ。先生。




高校2年の冬。
コンクールの会場で倒れた。
それは今後の自分の進路を考えれば外せないタイトルで、この先の俺の人生がかかっていた。

『また、来年があるわ…』

来年なんてない。

思えば調子はずっと悪かった。
初見の医者は、あなた体の中で血が半分無くなりかけてましたよって、呆れ顔で俺に言った。
調子が悪くて当たり前だ。どうやら、俺は死に掛けていたらしいんだから。
治療のためにこのまま半年は君、入院しなければならないよ。
そう追い討ちを掛けるようにその医者は言った。

終わったんだ。
そう、思った。だって三歳からずっとだ。ピアノしか、クラッシックしか見てこなかった。俺のすべて。

嘘。

やっと開放されたんだと思った。
どこ迄で走ればいいんだろう、どこで休んだらいいんだろう、そんな事を考える隙すら埋めて来たから、その実俺はホッとしていたんだと思う。

ただそれに気付いたのは、もっと落ち着いてからの事だったけど。
なんであんなに自分を追い込んでいたんだろう。進むべき道なんていうのは決められたものひとつだけじゃなく、作りさえすれば幾通りにだってなるものだっていうのに。
一つの事しか認めて貰えず、評価は全てそれに纏わる事だけ。
そんな風に育って、そんな風にしか自分の価値を他人に図って貰えていなかったら。そう、俺は思い込んでいたから。

お母さん。僕を見て下さい、一生懸命やるから、お願いだから。

それが、当然の事なのだと。
認めて貰っていたのは、そんな自分だけだと小さな俺は思っていたから。

なんて滑稽な事だ。

今そんな風に思えて自分に呆れられる余裕が出来たのも。
あの人のおかげなんだろうなって、今なら思う。




コンクールのジュニア部門で入賞してしまったのが、全てのきっかけだった。

『すごいわ、恭司』

あの日の鮮やかな母の笑顔。
それで本格的に母とピアノに打ち込む日々が始まった。
プロを目指す音楽の世界では皆がそうだけど、その日から母と俺は二人三脚の練習漬けの毎日が続いた。
師事する先生がついて毎日最低四時間、休日はずっと。時に止められるまで練習を。

初めは楽しかったはずのピアノだった。

サッカーをやってる子ならボールが、スイミングやってる子なら体を取り巻くその水が。語りかけてくるだろう、そして自分とシンクロして体の一部になって、すべてが自分の思い通りになるという感覚。
俺にとってはそれがピアノの鍵盤だった。

ただ、母に笑って貰いたかった。彼女の笑顔が見たかった。そして頭を撫でて。
ただ、褒めて貰いたかった。
小さな俺が望んだのは、たったそれだけの事だったのかも知れない。

当時、家庭は複雑で。俺の父には別宅に愛人が何人かいた。
赤坂さんに六本木さん、それから。
俺の母自身も、白金に来る前は銀座のそういう女で、俺が生まれる迄は夜の店の切り盛りをしていたらしい。
彼らが不仲になったのは、多分俺が大人の会話が解るようになるよりももっと前からの事だったんだろう。
夜中に目が覚めて、自分の寝室の扉を開けて廊下に出ると、父と母の寝室から漏れ聞こえて来た会話は冷たく棘のあるものばかりだった記憶しかない。
静かにそのまま扉を閉め、何も知らないふりをした小さな俺。翌朝、家族は何事もなかったように光の溢れるダイニングテーブルの上でコーヒーを。

ばかみたいだ。

そんな日常を過ごしていたら、心と体のバランスなんて簡単に崩れて行くのも当たり前の事なんだろう。
笑顔の優しかった母は時に反転するように壊れ、ヒステリックに回りの人や物に当たり散らした。そして、正気に返り泣きながら小さな俺を抱き締めた。そんな極端な彼女の感情の発露を受け止めるのはだたっ広い家の中で、俺ただ一人。
世界が家庭と学校とその周辺にしかない小さな子供の時分に、そんな状況に置かれてみろ。

あんたなら、どうする?

『一流になりたかったら血を吐く思いをするのは当然の事なの。弱い人間は潰れるだけよ』

そして、好きが義務に摩り替わる。
タイトルを獲って、また次のために過ごす日々。喜んで貰いたい一心で盲目的に彼女に従う自分と、そうでは無い自分がいる事に気付き始めたのはいつ頃からの事だったか。それでもそんな事実をねじ伏せて、体が上げる悲鳴に気付かぬ振りをして来たけれど。

もう走れません、ごめんなさい。
期待に応えられません。
あなたの、笑顔が見たかったけど。
音が、体から、指から、すり抜けて行く。

限界だったんだろうな。
こんな風にプレッシャーなり無理を重ねて、潰れ挫折して行くのは色んなケースできっと多分よくある話なんだろう。

突然放り出された病室のベッドの上。
コースから外れ、横たわる俺を母は哀れみの表情で眺めた。
そして無意識に彼女の口から漏れた溜息の音。

空っぽだった。
夜の病室は静かで、その窓からは見えたのは暗い夜の河。

幾ら覗いてもその底は深く暗闇に沈み込むばかりで、何も見つかりはしない。





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