Dear.



-9-



夢だったらよかった。夢ならよかったのに。

そう思ったって日々は確実に過ぎて行くのだ、これまで通り何の波風も立つ事なく。
僕が望まない限り、多分この世はプラスティックのように無機質で、いたって
快適な作り物の様なんだろう。

プラスティックの箱の中から見た風景。プラスティックの箱の中から見てた夢。
そこは、暖かくも冷たくも無い。

だけど、うっかり夢だったなんて思う事はもう出来やしなかった。
だってチェストの奥ではあの砂色のセーターが物も言わずに沈んでいる。 
壁に掛かってたハンガーだってひとつ、今も寒そうに空っぽのままだから。

「よぉ、お先っ」

校門の入り口で、登校中の僕らの脇を自転車に乗った彰広がベルを鳴らして通り過ぎて行った。

「おう、後でなー」

「…頑張るなぁ」

「これから寒くなるってのにな」

朝。
日差しの色はまだ暖かいけど、こうしてしゃべりながら吐く息はもう白い。
吹き抜ける風が冷たい。
彰広の消えた背中を、僕は視線で追いかけた。

「エネルギー無駄に余ってんだな、羨ましぃー」

「女に回して余るくらい、ってか」

「あー。アイツ最近また派手にやらかしたとか、なんだとか?」

「ケ。なぁー、マコっちゃんブラバンと野球部の打ち上げ出たんだろ?あの2-Bの加納さん呉にコクって二人で消えたってホントかよ?」

何、ソレ。
加納さんって、あの色の白い?

「こっちに聞くな。売らねーよ」

「ん?売らネェって事は、マジかーっ」

クラスの連中は言いたい放題。
やだね、みんな腹黒大臣。

女の子の事なんて、人になんか話せない。隙見せてみろ、一気に祭り上げだよ。
次の日にはこんな風に面白可笑しく中傷気味に知れ渡ってる。
だから、用心しなきゃいけない。
相談なんて、誰にも出来ない、親友以外は。

あいつは、通学を自転車に切り替えた。



「やっぱ、具合悪いんでしょ」

昼休みの第一音楽室。
恭史さんの座るピアノの脇、椅子を並べた僕はちょっとだらしない格好のまま、艶やかでひんやりしたピアノの肌の感触を味わっていた。

「ううん、平気。全然平気だよー」

「嘘つけ」

「ねぇ、せっかく気持ち良く鑑賞してるんだから。そんなの気にしないで、続けてよ」

とろりと閉じかけた瞼を上げ、僕は少し不機嫌な顔をした恭史さんに次ぎの催促をした。

ピアノの前はいつもの陽だまりだ。
上着を脱いだ恭史さんの白い袖口で、あの金の鎖が揺れているのを眺める。
手首が揺れて光も揺れて、ゆらゆら、ゆら。
陽だまりの床の上に穏やかな波の模様が出来た。

今日、恭史さんが弾いているのはガーシュインだ。
反復して行く和音は少しけだるくて、静か。それを練習のため、更にゆっくりテンポを落として恭史さんは弾いていた。
ピアノのための前奏曲は歩くような速度でやや自由に。
袖口の光がそれと同じ速度で揺らめいて行く。
その、ゆったりと音が落ちて行く感じ。
熱にぼやけてしまった僕の身体にとても心地良かった。

「あのねぇ」

きれいなカーブを描く恭史さんの眉が、ひくりと片方つり上がった。

「具合悪い時は普通、静かなとこにいるもんでしょ」

「そうだっけ」

「そうなの。音で刺激されたりするんだよ。熱、上がるよ?」

こんな事をしている僕を、恭史さんが快く思うわけがないって事はわかってたけど。

「でも僕、ここでこうしてるのが、いいな」

だってここは酸素がたくさん溶けているから。
僕は楽に呼吸が出来るんだ。

突っ伏して、僕が再び瞼を閉じたので、恭史さんは飽きれたのか、それ以上何か言うのを止めた。

ピアノの肌は黒くて冷たい。
ひんやりと透き通って、だけど、どこかが暖かくて。
それと同じくらい、夢みたいにゆっくりと落ちて行くブルー・ノーツの音。
恭史さんの指が造り出す音はいつもひんやり涼しくて、どこかがほんのり暖かい。とても心地の良い冷たさなのだ。
そんな音を造り出す彼の指も、そんな冷たさを保っているのかな。

ピアノの肌の、白いキイの、あの黒い肌の。
その、ちょっと冷たい僕の好きな冷たさの。僕の好きな指の・・・

『こんな事しないから。おまえを怖がらせたりなんてしない、二度と』

これが彰広の思い遣りなのだろうか、それとも決別ってやつなのか。
自転車通学なんか始めやがって。

僕らの間には一枚、幕が降ろされたみたいだ。
いや、それはちょっと前からあったのだけど、あれがレースで出来ていたのだとしたら、今度のは遮光カーテンほどの質感があるように思えた。
何を見て、何を思い、何をしたいのか。
隣にいてもちっとも僕にはわからなくなった。
手を伸ばしても掴めない、ホログラム相手に笑ってるみたいなものでさ、熱も感触も何もないんだ、その向こうには。
いるのにいない。いないのにいる。それで分った振りして笑い合う。

そんな事になっても、はたから見ればやっぱり誰にもわかりはしないのだろう。
もう、全然違うのに。
ほら、今みたいに第三度と第七度の音がずれたくらい、僕たち違っちゃってるのに。
聞こえないんだ、皆には。
彰広がそういうふうに造った。
僕のために造った防音完備のプラスティックの箱だ。
中は余計な雑音なんて聞こえてこないし、実に一般的な物で満たされていて、とても快適にあつらえてある。
あいつが知る限りの、僕が僕でいるために不必要な物がすべて取り除かれた空間だ。

だけど、ここには温度がない。彰広が、いない。
それで、彰広の隣にいるのは。
僕じゃない。

冬がそこまで来ていた。
相変わらずあいつはガムを噛んでいるし、僕はこうしてメロンパン抱えて音楽室に通っている。
変わった事も、変わらない事もあるけど。
なぜだか、あれから僕はずっと風邪が治らないでいた。


「さぁ、保健室に行こう」

予鈴の鳴る十分前。恭史さんはそう言ってピアノの蓋をぱたりと閉じた。

「いいよ…教室、戻る」

「何がいいの?」

恭史さんの声がいつになく冷たかった。

「いいわけないだろう、そんなで」

「平気だって。あと、二時間だもん」

僕はとりあえず笑顔を作ってみたけど、何だか思った形にはならなかったみたいだった。
確かに熱っぽかった。頭も足元もふわふわして、身体の中心がどこなのかすら何だか怪しくなってさえいた。
だから保健室に行こう、っていう恭史さんの提案は僕にとってすごく魅惑的に響いてはいた、のだけど。
でも、僕は教室に戻らないといけなかったのだ。だってそうしないと…

恭史さんのきれいなカーブがかかったあの眉が、また片方ひくりと上がった。

「誠君、さぁ」

ふらふらと立ち上がりかけた僕に恭史さんは言った。

「なに、頑張ってんの?」

うん。

「……」

何を。
僕は、中腰のまま俯いて固まってしまった。
(…僕何を頑張ってんだろう)
頑張って、何を止まっているんだろう。

「どうかした?」

しばらくちっとも僕が動く様子をみせなかったので、不思議に思った恭史さんは何気に僕の事を覗き込もうとしたんだと思う。

ぱたっ。

「ちょっ…と」

ぱたぱたぱたっ。
僕のところだけ雨が降ったのか。

「…誠君」

僕は泣いていたんだ。
何で、なんて思う間もなく、あっと言う間に僕の顔は涙で濡れそぼってしまった。
僕の内に抱えていたらしい、ものすごい量の水蒸気が、瞼の下で勝手に結露して流れ出て行ってしまうみたいに。
慌ててゴシゴシ、僕は手の甲でそれを拭ったけど、ポロポロポロポロ、涙は次ぎから次ぎへと落ちて来て、一向に止もうとしてくれない。
僕に何の断りもなしに、天気雨みたいに何だか実感のない涙のくせに。

「ははっ…」

僕は笑おうとして失敗した。
滴が袖口に流れ込んでじんわりと広がった。
ずぶ濡れになってしまった僕の手の代わりに、恭史さんの長い指がゆっくり、僕の頬に流れ落ちる涙をすくった。

あったかい、と思った。それで優しい。

「何、やってんのさ。無理しちゃって」

それでも僕は目を開いたまま、ただポロポロと涙を流していたので。
困ったように呟いた恭史さんは、子供を抱くみたいに、僕の頭をそっと胸元へ引き寄せたのだ。




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