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「へっくしょいッ」
ぁー。
こんな酷い目に会うなんていつ以来の事だろう?
肌寒かったのが幸いして、きっちりライフジャケットを着込んでいたのだけは正解だった。
でも、それにしたって秋の湖は泳ぐには既に、ちょっと冷た過ぎたみたいだ。
まずいな、何だか鼻の奥がさっきからグスグスするよ。
こめかみの辺り、昨夜からズキズキしてたのに。
「よぉ、コーヒーでよかったか?」
「あ、うん」
緩い放物線を描いて、胸元へ投げてよこされたホット缶。
「…うー、あったかーい」
冷え切った体に染み渡るような温もり。
綿毛布の上から胸に抱いたら、ゆっくりと幸せのため息が出た。
「感謝しろよ?」
「えぇえぇ、そりゃーもう」
綿毛布の中から、僕は缶を放り投げた相手を見上げた。
砂色のざっくりしたセーター。
褐色の肌のあいつにその色はとてもよく似合っている。
僕にくれたのと同じ銘柄の缶コーヒー。
胸に抱いたまま、まだ開けないでその暖かさを味わっていた僕は、鼻先に感じたその香りに中身を口にしてしまったような気分になった。
「よかったのか?まだアップまで時間あったのに」
「ああ。今日はもう、十分楽しんだから」
空気が柔らいでた。
肩の力が抜けているのがわかる。
開放したワゴンの後ろ、僕の隣に腰をかけて彰広は言った。
結局、ずぶ濡れになった僕はそのまま岸に上がり、着替えが出来るまで車につんであった綿毛布に包まって皆の帰りを待つ事にした。
シャワーこそ浴びれなかったが、近くの水道水を借りてなんとか湖の生臭さだけは洗い流す事が出来てホッとした。
水だからめちゃくちゃ冷たかったけど、もうそんなの構ってなんていられない。
だって、秋になって養分たっぷり含んだあの緑色の水を体に張りつけたままでいる事を想像してみなよ?
帰りには温泉寄って行くなんて話もあったんだけど、それまで我慢しろなんてのはちょっと拷問にも等しいってものだ。
「服、ボートハウスのコインランドリーに突っ込んで来たからな。帰る頃にはなんとかなっ てるだろ」
「うん。ありがとう、助かったよ」
それにしても。
岸に上がった時、やっぱ誰か付いてってやれよって事になって、もちろん原因に関わったコウちゃんがボートから降りようとしたんだけど、
『って事は、俺がいただきだな』
よっちゃんのその一言であっさり、コウちゃんはボートに戻ってしまったんだ。
それで降りる奴をジャンケンで決めようぜ、とか言い出して。
それはちょっと、友達がいがないと思わないか?仮にも幼馴染だぞ。
「ごめんな、色々やって貰って。じゃんけんで負けたワケでもないのに」
「だってなぁ。あん中じゃ俺か鮫島しか降りそうにねーじゃん」
「僕は靴にも劣ったってか」
「うん、まぁ、ナイけどそうかも。身内に厳しい奴ばっかだな、諦めろw」
「ふん。彰広だってアレ、欲しかったんだろ?」
あのスニーカー、彰広が前雑誌でチェックしていた事があるのを僕は知っていた。
彰広はああいうのが好きなんだ。
「まあな。でも、手は打ってあるし」
ちょっと意地悪そうに笑って、彰広は残ったコーヒーを一気に飲み干した。
「ウソ、誠のが大事だよ。な、それより髪乾かさなきゃな。あっちの四駆からなら電源とっ てもいいって、上総さんが」
空になった缶を足元に置き、彰広は僕のまだ濡れて乾かない髪を指先で弾いた。
「ちょっと俯いて」
用意してくれた新しいハンドタオルと携帯用ドライヤー。
外にぷらぷらぶらつかせたままの僕の足をくるりと車内に押し込んで、彰広はそのまま美容師みたいに僕の後ろに立った。
濡れてしまって冷たくなった僕の髪を、乾いた温風と彰広の長い指がゆっくり梳きすかして行く。
「うーん。いまいちパワーが足んねーか?」
「そうでもない、あったかいから気持ちいよ」
優しい指の動き。彰広の指は長くて少し冷たかった。
もう、ずいぶん忘れていたけど、小学生の頃よく僕たちはこんなふうに。
(こういうの、すごく好きだった)
僕は瞼を閉じた。
誰かのところでお泊り会をやったりすると、いつもきまってお風呂の後、彰広はこんなふうに僕の髪を乾かしてくれた。
それが気持ち良くて、つい僕が目を細めたりすると、猫みたいだって言って頭をぐりぐり、よっちゃんあたりがちょっかいを出して邪魔をしたのでよく怒った…僕が?違う、彰広が。
覚えてる。
僕の髪が好きだって言った。
彰広は僕の髪を触るのが好きだった。
細くて柔らかくて自分のとは全然違う、そう言ってさらりと指先で梳いた。
彰広の髪は、短くて硬い。そんなに好きなら取り替えてやるよ。僕はすぐ寝癖がついて乱れる自分の髪をいつも不満に思っていたからそう言った。
そうしたら、あいつ僕を『ばかマコ』って。
(それでまたケンカになったんじゃなかったっけ?)
ちょっと暴れた拍子に熱くなっていたドライヤーのカバーが腕の内側の皮膚の柔らかいところに触れて、僕は軽い火傷をした。
たいした事はなかったんだけど、それが原因だったのか、中学に上がったからなのか。
この習慣は久しく途絶えていたんだけど。
彰広の指は変わらず優しかった。少し冷たくて乾いた指先。
僕の髪も、あの頃と同じに柔らかなんだろうか?
当時、僕はコウちゃんでもよっちゃんでも鮫島でもなく、誰より、母さんよりも。
彰広にこうされるのが好きだった。
(それって、何でだったんだろう?)
なんて、思いを巡らせていたのもつかの間。
「ち、ちょっと!頭洗うんじゃないんだからっ」
突然、ガシガシ容赦なく彰広は僕の頭をかき回し始めた。
「んー?このほうが早く乾くんだぜ。ほーら、暴れんなって、おとなしく毛布に包まってろ
よな。風邪、酷くなったら困るだろ」
(え?)
「ああっ、もうちょっと、優しくっ!」
「何だとー?聞こえねーなぁ」
「もうっ!」
そっか。彰広にはわかっちゃうんだな。
暴れてるくせに、僕は何だか懐かしくてあったかい気持ちになっていた。
何だか、昔みたいだと思った。
そう、ほんのちょっと前の事だよ。ケンカに馬鹿騒ぎ、悪ふざけにいたずら。そんな馬鹿げた事やったっていつも笑って許されて、それで良くてさ。
僕たちずっとこうなふうにして来たんじゃなかったのか。
「…ばっかみたい。全然変わってないじゃん、おまえ!」
僕は逆襲に出た。
両手の塞がった彰広の両頬、速攻で思いっきり引っ張ってやる。
「マっ…」
力じゃ負けるけど素早さだったらこっちの方が上。
ぱっと離してあっけに取られた彰広の顔を、僕はじっと覗き込み思いっきり舌を出してやった。
それで反射的に浮かんだ彰広のエクボ、すかさず僕は突っつく。
「僕の勝ち」
間の抜けた顔。
子供っぽいって怒ったっていいよ。
だって、僕はお前とこうしていたいんだ。
ここのところの息苦しさなんて、その時はどこかに行ってしまっていた。
知らないうちに僕は笑ってさえいたんだ。
悩むなんてばかみたい、そう思ったのに。
彰広の瞳の色が変わったのに気付いたのは、引っ込めようとした僕の指を彰広の手がゆっくりと包み込んでからだった。
「彰広…?」
僕は小さく唇を開き呟いた。
射るような強い視線。ためらうように彰広の睫が震えた。
これは、あの日の夕焼けの空気。
それで僕は、息つく間もなく引き寄せられた。
声も出ないほど、あまりにも力強くて濃密な抱擁だった。
僅かな隙間もその存在を許さないように、彰広はぴったり僕に身体を圧しつけ絡ませた。
胸も腕も腰も僕のすべてがあいつの物で、身体ごと持って行かれたみたいだった。
誠。
掠れた呟きに変えられた僕の名前。
毛布なんてとっくに滑り落ちてしまった剥き出しの素肌の胸を通して、抱えきれない彰広の思いが僕の中に流れ込んで来た。
セーター越しでさえわかる、あいつの熱い鼓動。
僕が欲しいと、背中にすがりつくその手のひらが語りかけるから、閉じ込められた僕は瞬きひとつ出来ず、ただただ、瞳だけを大きく見開き。
「あっ…」
首筋に絡みついた彰広の熱い頬が吸い付くように僕の冷たかった肌に熔けた。
そこにかかった吐息も唇も、痛いほどに熱くて。
太ももに割って絡んだ足、力強くこの上ない抱擁、首筋に感じた、焼けるような痛み。
心臓が、破裂してしまいそうだった。
「っ・・きひ…」
ヒュッ、
その時僕の喉が妙な音を立てた。
しばらく呼吸を忘れて空っぽだった僕の肺の中が、突如流れ込んで来た空気で一杯に詰まってしまったらしい音。
「…マコ?」
それでカタカタと小刻みに、痙攣するみたいに震えが来た。
鳩尾からそれは始まり、すぐに身体中が、彰広の腕にきつくきつく抱きすくめられているはずの僕の身体は。
「誠ッ!」
車の外から、さらさらと乾いた葉の擦れる音が聞こえた。
車の近くに人はいないんだろうか。
時々風に乗って、遠くの子供の声が流れて聞こえて来るのがわかる。
スコールみたいな激情は消え去っていた。
今ここにあるのは、凪のような穏やかさだけ。
「ごめんな。とうとう、やっちまった」
ぽそりと呟きが聞こえた。
「我慢するって決めた筈だったのに・・・」
ため息がそこに交じっているのがわかった。
彰広は僕を守るように緩く腕で抱えると、まるで子供を落ち着かせる時にするみたいに静かに僕の背中をさすってくれていた。
その中で、僕は必死に呼吸を整えようとただ細く息を吐いていた。
「・・・俺、最低だ」
静かに僕の上に降りてくるため息交じりの低い声。
背中に感じる彰広の手のひら。
こんなふうに触れられているなら、全然平気なのに。
怖かった。
気持ちが向けられたから、知ってしまったから、あんなふうに抱き締められたから、
彰広が?
「マコは、わかってんだよな。わかってて、何も言わずにいてくれたのにな」
(…違う)
違うよ。僕はわかってて何も言わなかったんじゃない。
言えなかっただけなんだ。ただ、ごまかしていたかっただけなんだ。
彰広の気持ちも、自分の気持ちも、事実すら、何もかも。
「俺、ずっと自分に言い聞かせようとしてたんだ。マコの傍にいるなら、それじゃ駄目なんだって。でも」
訥々と語る彰広の声が震えた。
「でも、やっぱ駄目みたいだ。ごめんな、俺・・・お前が、好きだよ」
僕は目を閉じた。
消え入りそうな告白だった。かつて、聞いた事もないような。
こんな脆い物を彰広が内に抱えていただなんて。
僕は本当に何もわかっていない。
こんなせつない思いをさせていた事に、僕は気付こうとしたか?
「僕…」
口を開いても、その先の言葉なんて見つけられなかった。
考えずに見ずに来たツケが、今まわった。
ただ、ただ、胸が痛かった。
何も言う事が出来ず、僕は彰広の肩口に額を落とした。
「…マコ」
そんな僕の頭をあいつは一瞬抱き寄せて、髪に頬を寄せた。
俺を好きか?
そっと、幻みたいに囁いた。
「今の、忘れて」
「彰…」
「いいんだ。わかってたから」
僕は初めて顔を上げ、彰広を見つめた。
瞳の色が淡い。
いつもは強い光を放つ事の多い彰広の瞳が、こんなにも柔らかい色をたたえる事があるなんて。
「二度と。こんな事しないから。おまえを怖がらせたりなんてしない、二度と」
彰広の僕を抱く腕が外れた。
あいつの体温が離れて行く。
今ある距離以上に遠くへ、そこから僕を見つめる。
(何か言わなくちゃ)
そう思って唇を動かそうとするのに。
「着てろよ。こっちのがあったかいから」
彰広は車から降りると、自分の着ていた砂色のセーターを脱いで僕に放った。
「…かわりに、おまえのGジャン貰ってくな」
車の端でくたっと丸まったままでいた僕の大きめのGジャン。
彰広が着ればちょっとタイトかもしれないそれを、あいつは拾い上げて肩に担ぎもう一度僕を見つめた。
真昼の太陽の下、あいつはひとり佇んでいる。
いつもあんなにはっきりと僕に印象を残す彰広の、その輪郭がどうしてか、僕にはぼやけて見えた。
「…彰広っ」
洗濯物見て来る、そう一言残して彰広は行ってしまった。
結局、名前を呼ぶ以外の言葉は僕の口からは出て来なかった。
残された彰広の砂色のセーター。
抱きしめるとふんわり、あいつの乾いた優しい香りがした。
「おい、もういいのか?ほら、マコ、もっと食えって」
あの騒ぎでもバラす事なく無事上総さんが釣り上げてくれた、僕に来ていたあの魚。
バス釣りはキャッチ・アンド・リリースが基本だが、ヤツはがっぷり僕のルアーを飲み込んでしまっていたのでリリースされる事はなく、他の何匹かと一緒に今鉄板の上でじゅーじゅー音を立てながらバーベキューにされていた。
「いいや。よっちゃんにやるよ。だってこいつ、忌々しいし」
無念は食ってはらせ。
そうは思ったけど。
その時の僕には食べるどころか、味なんてちっともわかりはしなかったのだ。
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