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予鈴の鐘はとっくに鳴り終わってしまった。
幸い五時間目にこの教室が使われる予定はなかったらしく、辺りはいたって静かだ。
「落ち着いた?」
僕は小さく頷いたけど、顔を上げる事がまだ出来なかった。
「…困った奴」
その声に呆れが含まれていなっかった事が、僕を少しほっとさせた。
さっき。
僕は恭史さんの胸を借りて泣きたいだけ泣かせてもらった。
もう、とりあえず泣きたいだけ。
嗚咽を立ててすすり上げさえして、
人前で泣いてるなんて事考える余裕もなく僕は泣いた。
悲しかったわけじゃなかった。ましてや悔しかったわけでも。
ただ、もうどうしようもなく溢れてしまったみたいなのだ、僕の中に少しずつ、溜め込んで来てしまった何かが。
「ちょっと肌寒くなっちゃったかな」
日差しはいつの間にか厚い雲に覆い隠されてしまったらしく、いつもの陽だまりの暖かさはとっくに失われていて、辺りはうっすら寒さが押し寄せて来ていた。
使う予定のない教室に暖房は入らないから、抱えられたままだった僕は良くてもシャツ一枚の恭史さんの胸はびしょ濡れだし、その肩はもう既に冷たくなってしまった。
「ごめん、なさい」
掠れて裏返った声を出した僕を見て、恭史さんはただ笑った。
外していたネクタイを締め直そうとして、やっぱシャツがこんなじゃ締めないほうがましだよね、なんて言いながらジャケットだけを肩に掛けて。
「体操着、ロッカーにあったかな?」
そう言って、ただチラリと笑う。
何があったかなんて、聞こうとしないんだ。
いきなり泣き出すなんて、そんな無軌道な事をやらかした僕に、あなたはただこうして付き合ってくれるんだね。
この人は、大人で。本当に優しい。
彰広も。みんな、どうして。
…優しくないのは僕だけだ。
昨日の放課後、僕は図書室の当番でカウンターにいた。
受け取った貸し出しカードの名前に気付いて、顔を上げた。
(2-B 加納 祥子)
この人。
「こんにちは」
髪がサラサラして長い、色の白い先輩だった。
人数の多いブラバン。
木管の彼女と金管の下級生の僕にはあまり接点がなくて、話した事も数回あるかないか。
『コクって二人で消えたってホントかよ?』
それがホントなら、この人が。
つい、見詰めてしまったのは僕の方が先だった。
そして既視感を覚えた。
この人、僕と目が似てるんだ。
向こうもまじまじと僕を見詰め返して、それから少し不可思議な顔をした。
「ふーん・・・」
そしてにっこり笑って
「斉木君、目がきれいって言われた事、ない?」
心臓を掴まれた感じがした。
目がきれい?
それは。
あなたが言われたの、あいつに。
「きれい、って。男だから僕は。そんな事言われたりしませんよ」
「そう?」
この人は男と間近で見つめ合う事に慣れている。
「はい。そういう先輩は、髪がきれいって言われませんか?」
掬うとサラリと逃げてしまいそうな艶やかな長い髪。
この髪を、あいつは僕にしたのと同じように梳き上げるんだろう。
この人は、彰広の好みだ、多分。
そう思ったら。
「今日の貸し出し分の返却は来週の金曜までですから。先輩、部活行かなくていいんですか?」
おおよそ、僕らしくない。
笑いを顔に貼り付けて、本にカードを挟み込んで彼女に渡した。
嫌な態度。
いいじゃないか、良さそうな人だよ。
彰広がこれから誰と付き合おうと、僕に何が言える。
僕は、何もしないくせに。
何も、出来ないくせに。
僕は。
「恭史さんみたいに、なりたかった」
「え?」
「恭史さんみたいに出来たら。きっと、もっと上手くやれたんだ」
優しく出来たら。自分を知る事が出来たら。その事にもっと素直だったら。
結局、僕は子供でしかなくあの頃からちっとも変わっていない。
自分の事だけ見て、相手を思い遣るような余裕が全然ないんだ。
それに気付いたってどうすればいいのかわからなくて、立ち往生ばかりしている。
「そしたら…」
「上手くなんて、本当にやれてると思う?」
ポツリと恭史さんは言った。
「マズイ事だらけだろ、大抵。知ってるだろ?俺、何て言われてるか」
掻き揚げた前髪の奥から、幾分きつさを帯びた瞳で恭史さんは僕を見た。
それはキレイだけどちょっと冷たい、人を寄せ付けない雰囲気の瞳。
『あの人、人寄せ付けない人だって』
皆が言う、それが恭史さんのもうひとつの顔、なんだろう。
「スかしてるとか冷たいとか。その通りなんだよ、本当は」
その袖口から、金の鎖に繋いだあの小さな羽根のチャームが零れ落ちた。
「ピアノ弾くしか、俺、能がないしね」
「でも」
口元だけ薄く笑みを作って、きつい光を放った恭史さんの瞳を僕は見返した。
「僕の知ってるのは、この恭史さんだ」
なめらかで、きれいで、柔らかくて。
誰かを愛する事を知ってる、自分の思う事にすごく素直な人。
「うん。そりゃ、数少ない俺の気に入った人だからね、誠君は」
恭史さんは笑った。
「好きだから、優しくするよ。守ってやりたいなって思う。そう思う人は凄く少なくて、俺、本当は優しさなんて多分少ししか持ち合わせてないんだと思うよ。だからね、出来るとこぐらいちゃんと使っていかないと、って」
例えばそれだけが自分の良心だとしても。
それさえ出来てればいいってさ。自分と好きなものには素直な方が得だって、教えてくれた人がいたんだ。
「それで、大切なものにだけは優しく大事にする事にしたの。だって、そんなでこんなふうに泣いた時ひとりだったらさ」
悲しいじゃん?
そう言って恭史さんは僕の泣き腫れた頬を親指で擦り上げた。キュッとつり上がったその眦からポロリと涙の名残が零れ落ちた。
プラスティックの箱。造ったのは彰広だけじゃない。僕が。
「誠君は、好きな人が、いるんでしょ?」
好きな人。
「さっきの、そういう涙かなって思ったんだけど」
また雨空が近くなりそうな僕の顔に、
あのね、素直になった方が得だよ?
そう言って、突然恭史さんはキスするみたいに顔を近づけた。
「ふふふ。何だ、やっぱしょっぱいや」
「…っ」
「何か、甘そうな感じがしたんだけどなぁ」
「な…っ」
「ほら、シロップとか、何かそんな感じ?誠君からなら出てそうかなぁなんて」
頬に落ちた涙をぺろり、舌で舐めとって恭史さんはそんな事を言った。
「ななななっ…」
それでじっくり僕の顔を眺め回したりするので、その瞳が微妙に動くごとに、僕の頬は徐々に赤さを増して行ったに違いない。
「舐めてみたかったから、しちゃった。そんな顔、俺に見せたのが悪い」
自覚、ないでしょ?困った子だね。
誠君の相手の子は大変だろうなぁ。そう呟いて、
「ね。今度さ、店に遊びにおいでよ。俺おごるよ」
唐突にまたそんな事を恭史さんは言うので、僕はなななを言い続けるのを止めた。
「…え?いいの?」
「うん。おいで。そのさ、好きな子でもさ。一緒に連れてくるといいよ」
僕は、一度夜の恭史さんがどんなふうか、ずっと見てみたいと思っていた。
好きな子、はさて置いても。
「うん、行く。行きまっす」
「現金な奴」
「な」
「ほら、素直になった方が得」
恭史さんは短い口笛を吹いた。それで僕は何か言い返そうとしたけど、
(あれ?)
口を開きながら、さっきの気持ちがとっくに軽くなってしまっている事に僕は気が付いてしまった。
この人は、もう。
「あのさ。…授業、サボっちゃったね」
「いまさら何」
それで、ようやく普通の笑顔を見せた僕に恭史さんは呆れた声を出したけど。
その唇が一瞬だけ微笑んだのを、僕は見逃さなかった。
その後、やっぱり保健室に連れて行かれた僕は、ベッドで眠り込んだまま動けなくなってしまった。
眠っている間に僕の熱はどんどん勝手に上がり続けて、ひとりじゃ帰れないほどに具合が悪化してしまったのだ。
(ちょっと休んだら六時間目には出よう)
なんて思ったのに、気付けばとっくにホームルームも終わる時刻になっていたらしい。
保健室には人が入れ替わりで来ていたみたいで、恭史さんの声、担任の槌田、学校医さん、それとクラスの誰か。
そこに彰広もいたんだろうか。
槌田に学校御用達の病院に連れて行かれて、腕に注射と薬を処方され。
それから?
どうも記憶が曖昧なのだ。
母親が単身赴任中の父親のところへ昨日から行っていて、
保護者は家に不在だという事、家の鍵をどのポケットにしまっているのかとか。
そういった事を、僕は自分でしゃべった記憶がないのだ。
そんな状態なのに、くだらない事だけは覚えていたりする。
帰りの先生の車の中でだったか、保健室だったか、それとも自分の部屋の中でだったのか。
眠りの狭間を漂う僕に良く知った声が『ばかマコ』って言った。
当然僕はそれに言い返してやりたかったんだけど、もう死ぬほど口が重たくて、それどころじゃなくて。
元気な時に言ってみろ、絶対にただじゃすまさないのだが。
でも、これだけは。
誰もいないはずの僕の暗い部屋で、しばらく傍に付いてくれてた人がいた、その事だけはちゃんと憶えている。
鍵を開けて玄関に運び込まれた時、確かに僕は口に出して言ったのだ。
いないのなんて嫌だ、って。
僕と、僕の鞄をずっと抱えてくれていた、
見間違う事なんて絶対にない、見なれた制服の腕に。
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