Dear.



-6-



「マコちゃん、早く降りてきなさーい。彰広君、待ってるじゃないのー!」

「今行くー」

朝はいつも、近所に住む彰広が迎えに来る。

「悪ィ、待たせた」

「毎度のこった」

昔からの習慣だ。雨が降っても雪が降っても、ケンカをした時でも。
僕たちは毎朝こうして顔を合わせ、駅に向かう。
テレビの事とか、ゲームの事とか、なんて事ない会話を繰り返す。
歩き慣れた道と通い慣れた駅。電車を待って、乗り込んだ車両で学校の友達に声をかけたりもする。いつもの会話、いつもの彰広だ。何も変わってなんかいない。

そうなんだ何も。

彰広は夏にあった事なんて、僕にかけらも感じさせはしなかった。始業式の日、僕の家の玄関にいつも通り立ったあいつはやっぱりいたって普通で。

(そうだよ、あんなのは何かの間違い)

それで僕はホッとしたはずだった。
なのにその事が僕を次第に追い詰めて行くなんて。
その時は、思いもしなかったのだ。

駅まで続く緩い坂道。
黄金色に輝いてた銀杏並木は週末降り続いた雨ですっかりその葉を散らし、アスファルトの地面の上にひれ伏していた。
雨上がりの月曜日だ。二日ぶりに合う彰広。夏の間の白いスニーカーが黒い新品の艶やかなリーガルの革靴に替わってた。

「…コウちゃんから電話、あったろ、バス釣りの」

「ああ」

「それで、彰広とケンカしてんのか、って言われたんだけど」

クシャリ、柔らかくなった落ち葉を彰広の新しい靴が踏みしだく。
磨き抜かれた黒と押し潰された黄色の落ち葉。そのコントラスが僕の目にとても眩しく映った。
 
「ケンカ? 」

クスリ。彰広の僕の側の頬に浮かぶエクボ。 
 
「あー。そんな話になっちゃったのか」

「なっちゃったのかって、お前なぁ」

クシャリ、靴の下で次々に押し潰されて行く黄色の銀杏の葉。
確かに、彰広はいたって普通なのだが。

夏以降、それでも僕たちの間ではいくつか変わった事があった。
例えば、こうやって学校に行く以外あいつと僕がふたりきりになる事がなくなった。
学校もクラスも同じで殆ど毎日会って話しているわけだから、他の友達にしたらそれで十分な事ではあるのだけど。

少し鋭くなった彰広の横顔を僕は眺めた。

どちらともなく増えた互いの知らない時間。避けているわけでもなく、近づくわけでもなく、踏み込む事もしないし、その事について一言も口にはしない。だけど。

『あいつ、マコがいいって言うなら行くって、何か変な言い方してたけど』

(なぁ)

僕がいいって言うなら行くって、どういう意味だよ。そんな曖昧な言い方、彰広はしなかったろ?
 
クシャリ。潰れる銀杏の葉。 
 
「彰広、あのさ 、」 

立ち止まって彰広は僕を見下ろした。
真っ直ぐに引き合う視線とその強く黒い瞳。
そして、僕は探してしまうのだ。あの時僕を見つめた瞳を。
だけどそれを探る僕に気付けば、その隙は一瞬にして閉じてしまった。
喉の奥がくっ、と締まるのを感じた。
僕はどんな顔をしただろう。彰広は薄く笑って視線を外した。

「先週の金曜、廊下の掃除当番。誰の担当 ?」

「え? 」

「俺はひとりで二倍働きました。これってどゆ事? 」

「…あ」

 
金曜日といえば、恭史さんが不倫してるのを僕が知った日だ。あの日の僕はその後何をしても上の空で…HRの後、そういえば彰広を残してとっとと家に帰ってしまったんだ。

「…そかっ。ゴメン」

「よし。じゃ今日の1限の数学の教材準備、手伝え」

「えぇ?」

「そんでチャラ。な?」

視線だけをこっちにくれて、彰広は僕の一歩先を歩いて行く。
僕は目の前の広い背中にため息だけ付いて、コンパスの長い彰広に追いついた。

「あれは、お前が槌田に仰せ付かったんじゃん、自業自得。掃除サボりは悪かったケド、そか、彰広と一緒だったのか。すっかり忘れ去ってたよ、たった今まで」

「はぁ? マジで忘れ去られてたってか。なんて可愛そうな俺…」

「可愛そうって、それ新種のかわうそか何か? 」

「…そう、極寒のアラスカ地方で発見された新種のかわうそです」

「ふーん、エライ寒いとこに生息してんのな。その新種のかわうそ可愛そーだな」

寒いジョークに寒い返しでオトシマエつけろって?
本当に言いたい事はたくさんあるのに、ひとつだって僕の口からは出て来ないんだ。

「そうそう、あまりの寒さで凍えそうなのよ、その可愛そうなかわうそは。だから温かーい人の優しさ絶賛ウェルカム中なわけ。あー、大変そうだなぁ、朝っぱらから一人でプリントでしょ、OHPでしょ、スクリーンでしょ・・・」

「分ったよ、その可愛そうなかわうそ君のためにこの僕が手伝ってやればいーんだろ」

「そうだよ、その可愛そうなかわうそ君のために君は暖かい手を・・・っていつから俺かわうそで可愛そうでお前、僕様なんだ」

「さぁ。つか、僕様って。それどちら様だよ」

以前なら。
こんな時、僕たちここで肩を小突くか羽交い絞めしてじゃれ合ってたはずだ。
なのに今、一拍奇妙な間が差し込んだ。
僕らはそれに気付かないふりをして互いの視線を外した。

「はー。何様も俺様も、もうどーでもいい。数学準備室一緒に行ってくれんだろ?
な、それより今日、帰り、部活の後上州屋寄るけどマコどうする?ロッドとかちょっとみたい…」

こんなふうに時々、ふと感じてしまう違和感。
軽口だけは以前のまんま、笑顔だってそれほど変わったわけじゃないのに。
僕もあいつもどこか嘘をついている。
こんなやりとりが少しずつ、僕の息をする管に見えない膜を掛けて行くのだ。

「うん。図書館で待ってるよ。終わったら、お迎えに来い」

どうにかしたいと思うのに。
ふと浮かび上がる彰広の、左頬だけのエクボを見つめたまま思った。

らしくない。僕も、お前も。

黄色い銀杏並木も、いつの間にか終わっていた。



「マコは今日もメロンパンの日?」

快速が行った後の駅のホームは少し人が疎らになる。

「松本先輩のピアノ教室にマコが通ってるって、何だか噂になってるぞ」

実は僕は知らなかったんだけど。
昼休みに第一音楽室でピアノを弾く恭史さんの事は、学内ではとても有名な話だったらしい。

「皆勝手な事言ってるから、気をつけろよ」

音楽室に通ってる事は、別に隠していたわけじゃなかった。ただ、口に出して言ってしまうとあの優しい空気が壊れてしまいそうな気がして。
僕は誰にも言った事はなかった。彰広にも。

「…意味わかんねぇ。うっかりあの人の練習してるとこ踏み込んで、それで友達になったら、どうしてそんなふうに言われるかな」

「何にも知らないのか ?」

「何が」

「なんかな、松本さんって、人寄せ付けない人だったんだって。今まで誰か来るとすぐピアノ止めて教室から出て行ってたって話し」

それってお前特別って事じゃん?
そう言って、彰広は僕をチラリと見た。

「ふーん」

僕はあさっての方向を見て興味なさそうに答えた。答えつつ…内心かなり嬉しかった。
他の誰とも共有しないあの人の時間を、僕が独占してるって事だ。

「何か、ずいぶん嬉しそーだな」

僕の口の両端は弧を描いて上を向いていたらしい。でも、突っ込まれたってこれだけはどうしようもなかった。だって僕にとって、恭史さんはとにかく特別だから。

「きれいな人だよな。男だけど」

「うん。とてもね」

きれいだよ。あの人は見た目だけじゃなくて中身だってきれいなんだ。

「…あ」

そんな僕の傍らでポケットに手を突っ込んでいた彰広が低く呻いた。

「ちょっと、売店な」

ホームのくずかごにポイっと投げ捨てられた銀色の紙クズ。
そういえば、あいつが目に見えて変わった事がひとつだけあった。
夏が過ぎてから、彰広はしょっちゅうガムを噛むようになった。

「そんなに食べてると、なんか虫歯になりそ」

「ああ、そう思って最近はキシリトール」

戻った彰広はさっそくシーリングを外して中から抜き取ったガムを唇で挟んだ。
唇の隙間の、白い前歯にするりと差し込まれたグレーのチューインガム。

「食う?」

そう言ってちらりと覗いたあいつの白い歯。それと少し開いた唇の微妙な動き。
僕は無意識に自分の唇を指で覆った。


「…サンキュ」

あの夕日の色が再現する。
僕は小さく息を呑んだ後、数回瞬きをしてその場をやりすごした。
これは夏以降、僕が変わってしまった事のひとつ。

(彰広は上手くやってるのに)

こんな何気ない瞬間に、あいつは僕を僕でいられなくする。

「…何だよ?」

「いーや、何でもない」

表情の消えた僕に彰広は少し不思議そうな顔をした。
整った指の爪とシャープになった横顔。彰広にはこの先、甘いガムなんかよりもきっと苦い煙草が似合うようになるんだろうな。

背丈も肩幅も、夏を境に確実に僕たちは大人の男に近づきつつあった。
特に彰広は近頃数段大人っぽくなった。同性の僕から見ても感じ取れる、雄を示す男らしい色気。
だから、これはちょっとした気の迷いなのかもしれない。それまで目の前に居すぎて、そんなもの意識する事もなかったから。

「何でもないけど」

その時、僕は彰広を見ていてふと思った。

「そんなふうにガムばっか噛んでるの、何か禁煙してる人みたいだよ?」

煙草を止めようとする人は、口寂しくなるとやたらと飴とかガムを欲しがったりするらしい。その様子に何だかそれはとてもよく似ていると思った。

「禁煙?」

アナウンスとともにホームに滑り込んで来た電車。
通り過ぎる車窓にいつもの知った顔を探しながら。

「うん・・・似たようなもんかもしれないな」

「え?」

雑音に掻き消されそうな低い呟きを確かに僕はそこに聞いた。
開いた扉から次々に流れ込む人の波。
その隙間をぬって一瞬だけ見えた彰広の横顔に、何とも言えない淋しげな表情が浮かんだように見えたのは、僕の錯覚だっただろうか。




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