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「恭史さんって、大人だ……」
高校生で人妻と真剣に愛し合ってるなんて。何か格好良すぎだ。まるで官能小説の世界じゃん…って違うよ。あの人のは恋愛だもん。
『愛し合うのが素敵な事だって、その人と探してる最中』
そんなふうに言えるんだよ?クラスの連中の彼女とヤっちゃった話に出て来るような、取り敢えずイイカンジに愛し合ってるっしょ?なんて、そんな軽い話とは別の世界の話なんだと思う。
とても静かに彼女の事を話してた恭史さん。
相手に、既に人生を供にする相手がいたとしても、恋に落ちてしまったのなら…それは仕方のない事なのかもしれない。
だけど、それにまつわり生まれるだろう苦しくなる気持ちを、どうやって彼らはやり過ごしているんだろう。きちんと向き合っているなら気にならないはずがない、目の前の、高くて行き場のない壁。
それでも…あんな表情を見せるほど、恭史さんが幸せそうなのは。
(年上で、大人の女……?)
そういう人と寝るのって、どんな感じなんだろう。それが日常になって、それでも涙の薄い膜を張って彼女の事を静かに語れるような恋。
どんなふうに彼女を抱いて、抱かれるんだろう。その時も、あのさらさらと手首で揺れる金の細い鎖を付けたまま?
あの繊細な、左の手首でいつもひっそりと光を放つ金のブレスレット。恋人に貰ったんだって恭司さんは言った。羽根の形をした小さなチャームが付いていて、恭史さんはそれを時折愛しそうに指先で撫ぜていた。
抱きしめた愛しい人の髪を、頬を、項を。彼の、きっと饒舌な指先とともにひんやりと、さらさら辿り追いかけて行く金の鎖。
シーツの上で、抱きとめた裸の背中の上で、熱いため息と幾つものキスを落としながらしっとりと囁くようにすべらかな肌の上を流れ落ちて行く。
ほのかな桃色に染まったふっくらと柔らかな乳房に。小さくかわいい臍の窪みに。くびれた腰から張り出すふたつのまろやかな膨らみの秘められた谷間に…しのばせた小さな金の羽根は熱い行為とは裏腹に、きっと。
(…あ)
そんな事考えてたら。
ほら、ちゃんと僕の体は男と女のセックスの事に反応してる。
いたって普通の健康な男なのだ。
「マっコちゃん、ってば」
バサッ。
膝から英語の問題集が滑り落ちた。
「…ねぇ、何やってるの?さっきからずーっとぼっーっとしちゃって。あのねえ、幸太郎君からお電話なんだけど」
「えっ、あぁ、代わる」
…あっぶねー。
本当は僕、英語の課題をしてたはずなんだけど。学校から帰って来て、ぼんやり自宅のサンルームでそんな事(まったく…人のセックスの事なんか)考えてたら、電話の音も母が入って来た事にも、ちっとも気付かないでいたらしい。
子機を受け取った僕を、母が横から覗き込んで言った。マコちゃん、、顔が真っ赤よ?
「…何でもないって。何でもないですからっ」
ひらひらと手を振る僕に、母はニヤニヤして肩を竦め部屋から出て行った。
はいはい、その通りですよ。エッチな事考えてましたよ。わかってんなら放っといてよ。
ふう。ひとつだけ深呼吸。
『マコちゃん、だって。相変わらずだなー。おまえんとこのママさん』
「…うるせーよ。つか、何で家電だよ」
おまえんとこだって、未だコウちゃ〜んのくせに。
電話の相手は幼なじみの幸太郎。僕と彰広と、あと他によっちゃんと鮫島、何かっていうといつもつるんできた遊び仲間のひとりだ。
「何の用だよ?」
『遊びの誘いさ、他に何がある』
ついぞんざいな口調になってしまうのだが。
でも、僕の口が悪くなるのは気安さの証明みたいなものなのだ。コウちゃんとはもう幼稚園の頃からの付き合いだから、いちいちそんな事気にしたりなんてしない。
『今度の秋休みの週末にさ、よっちゃんの兄貴たちがバス釣りに行くんだって。そんで、俺たちもどうかってさ』
バス釣り。なんて魅惑的な響きなんだ。
「泊まり?」
『いんや、夜のうちに車出すって。早朝から張って、昼バーベキューって感じじゃねーの?』
釣りは僕たちの大好きな遊びのひとつだった。
普段は近場で済ます事が多いのだが、よっちゃんの兄貴たちが大学生になってからはこんなふうに時々混ぜて貰って遠くまで釣りに行ったりもしている。
行くべ? あぁ、と答える合間に、パリパリパリパリ。送話口で何か食べてる音がする。
「…おい。話しながら食ってんじゃねぇよ」
ガサガサっと何だかくぐもった音がした。多分、コウちゃんの永遠の定番ポテトチップス・フレンチサラダ味の袋を漁った音だろう。偏食のコウちゃんの体はコトリのように細く、その半分はこれらのお菓子で出来ている。
「他の面子にはもう連絡済みなの?」
『ああ。誠が最後。あ、鮫島な、こないだの事やっぱ気にしてたけどな。あれはちょっと、俺らも悪かったし。とりあえず、今回はちゃんと眠って休みながら行けば大丈夫だって話した。心配性のおばさんの方はなんとかするって』
「そっか…」
鮫島は僕たちの中で一番頭が良く、中学からひとり有名私立に進んだ。
学校が別れても友達でいられる事を一番最初に証明した、草花を愛でるなんて心も持ち合わせた優しい奴だ。ただ、ちょっと体が弱く。元気そうに振舞っていても、無理をするとすぐひっくり返ったりする。この夏もキャンプに行って夜更かしの挙句、鮫島の体調が悪くなった。おかげで、僕は。
『でさ、彰広だけどさ』
「ん?」
『あいつさっき、マコがいいって言うなら行くかなって、何か変な言い方してたんだけど。おまえら、何、ケンカでもしたの?』
「別に。何も? 」
『そーか?』
「そーだ」
パリパリパリパリ、片付けたと思ったお菓子をまた食べている音が聞こえた。
『ふーん。じゃー、彰広も行っていいって事で誠はいいっつー訳で ?… って何よ、この日本語』
「ホント何その日本語。つか、いいっつーも何も、こっちに聞いてる意味がそもそもわかんねーよ」
『…そ。じゃ、問題なしって事で話し進めるぜ? うー、したら…』
電話の切り際、何だか知らないケドくだらない意地張ってもつまんねーだけだぞ とコウちゃんが言ったから、分ったよ、話ししとくから平気。とだけ、苦笑して僕は答えた。
いろんな事を聞かないコウちゃんはいい奴だ。そしてよっちゃんも鮫島も僕にとって大切な友達だ。小さい頃からずっと。
(彰広。おまえだって、そうだったはずだろ?)
事の起こりは夏休みだ。
キャンプに行った帰り、鈍行の電車の中で鮫島が酷い乗り物酔いをした。
多分、昨夜はしゃぎ過ぎて睡眠時間が足りなかったせいだ。
あんまり具合が悪そうで、しまいに吐いたので、僕たちは慌てて次の小さな駅で途中下車をする事にした。
そのまま鮫島はトイレに篭り、じゃんけんで負けたコウちゃんとよっちゃんは駅の外に水や食糧を買いに行き、残った僕と彰広は無人の駅のホームで荷物番する事になって。
夕闇が濃く垂れ込み始めた頃だった。
その日はこの時間になっても蒸し暑く、僕もちょっとだれていて、隣で座って荷物にもたれてる彰広に少しだけ寄り掛かっていたのかもしれない。
次の電車までの一時間。
鮫島は相変わらずだし、コウちゃんたちも戻って来ない。何かしゃべっていた僕は、ふと彰広の方を向いた。
それで出会ってしまったのだ。
沈み込む夕日はあいつの背中にあって、その表情はほとんど読み取れなかった。
ただ、黒い瞳が。
濡れるような光を放ったあいつの黒い瞳が、ただ僕だけを見つめていて。
その時、あいつの気持ちが見えてしまった。
そして信じられない事に、僕はそれをそのまま受け入れてしまったのだ。
瞳と唇の上で彰広の熱を感じた。視線を繋いだまま、その濃密な空気に僕たちは溶けてしまったと思った。
実際には触れていない、だけど、あれはキスだ。
あいつと僕とで、交わしたキス。
『誰か開けてっ、扉が開かないー!』
あの時、鮫島が叫ばなかったら。
夜のサンルームのカウチの上。
電話を切った後もなお、僕はしばらくそこから動けずにいた。
忘れようにも忘れられやしない、頭の芯が痺れるほどの濃密な空気。
あの時、彰広にだって分かったはずだ。僕があいつの気持ちに気付いた事。
そしてそれを…その時僕が受け入れてしまった事も。
昼間の天気が嘘のようだった。
外はいつの間にか雨が降り出していた。間接照明に照らされて、庭木が雨を受けて小さく震えているのがわかる。
ずいぶん前に膝から滑り落ちた英語の問題集は、ただくたりと大口開けて足元の床の上に転がったままだ。
片付けるはずの課題なんて、もうどうでもよくなっていた。勉強する気なんて、とっくに失せてしまっていた。
僕は、キャビネットの引出しを開けた。
ここには、家族の趣味の道具が入っている。母がリース作りに使う松ぼっくりとか、細かな園芸用品、父のエア・プレインのキット、僕の釣り道具。
棚には、家族の写真も飾ってある。父が釣り上げたカジキマグロの脇で笑っている、小学生の僕。相変わらず細くて色素が薄い。
この頃は、家族でよく出かけたりもしていた。でも、しばらくそれもしていない。去年から父は札幌に単身赴任をしているのだ。
父と僕と母の三人家族。ごく普通の家で僕は育った。
しばらくしまい込んだままだったツールボックスの中身をひとつづつ丁寧に取り出し、床の上に広げて行く。
光の加減で虹色に光るウロコまでも繊細に刻み込まれた、ミノー。
ラメ入りの、巻き貝のキモみたいなテールの付いたグラブ。
様々な形と色とりどりの擬餌。
これらは僕がコレクションしているバス釣りで使うルアーだ。小学生の頃から少しづつ、お金を貯めて自分で買い揃えた。
『マコがいいって言うなら行くかなって、何か変な言い方してたけど』
釣りは僕らの好きな遊びのひとつだ。受験生だった去年でさえ、日曜日にはタックル担いで出かけたりもしたのに。
(随分、らしくない言い方するじゃないか?)
コトリと床に置かれたプラグ。
ちょっと変わった手作りのビッグバドは、彰広に少し面倒な仕掛けをしたワームと無理言って交換してもらった物だった。
『あー?何だよ、マコはライトリグしかやらないだろー』
『いいんだよ、だってこれカッコイイんだもん』
あの後あいつは何て言ったっけ。確か散々文句を言って、それでも…
摘み上げたそのルアーは、ビール缶の胴体に頭と尻尾だけが魚の形をしていて、やたらひょうきんな顔して僕の事を見ている。
あの瞬間。
僕は完全にあいつに捕らわれていた。そして今だって、あの時の事を思い出すとこんなにたまらない気持ちになってしまう。だけど。
(僕は、本当に彰広の事が好きなんだろうか?)
つまりはこれが。
ここのところ、僕を不安定にさせている原因なのだ。
つまり…彰広は僕の事が好きなのだ。それは友達としての好きではなく、多分…恋、それから性の対象としての好き。でも、僕は?
(…考えてみた事もないんだ)
だいたい、僕は色恋事に疎い。
中学生の時、付き合った彼女の事さえ、彼女が突然の事故で亡くなるまで本当は特別に好きだったわけじゃない事に気付きもしないでいた、僕はそんな奴なのだ。
ピアノを弾くのが好きな可愛い子だった。
繊細な雰囲気のわりに性格は前向きで明るく、そんなところを僕は確かに気に入っていたと思う。だから彼女に付き合ってって言われた時はちっとも悪い気がしなかった。
正直、初めての事で舞い上がってしまった。一緒にいて楽しかった。キスもした。彼女は恋してくれていた。それを可愛いと思ったよ、でも…
もしも、もっと時間をかけられていたら、僕も彼女と同じ重さで気持ちを重ねる事が出来たのだろうか?
あの日、運び込まれた病院で彼女は僕の名前を呼んだんだという。
彼女が聞かせてくれた、水が戯れて行く美しい音楽。絡み合って集まって一つになる。傷の付いたCDをかけたみたいにどこか音が抜け落ちてしまったまま、しばらくただ壊れたみたいに僕の頭の中をくるくると回った。
彼女は僕の何を好きだったんだろう。僕は彼女の何を知っていたんだろう。
ふわふわの髪の、赤いリボン。
彼女は突然居なくなり、僕は同じ重さでそれに答える事も出来なかった。
人の気持ちに重さや種類に対しての自分の鈍感さに打ちのめされたのだと思う。ただ音楽だけが壊れたみたいに僕の中でくるくると回って、そのまま僕の邪気を責めた。
暫く学校を休んだ僕を外に連れ出してくれたのは、彰広だ。
いつもと変わらず迎えに来て、いつもと同じように笑った。
あいつは何も聞かなかったし何も言わなかったけど、周囲の見当違いな慰めなしに、どれだけ僕の心を楽にしてくれたか。
だから。
だから気付かなければよかったんだ。友達だったんだ、大事な。友達でなくなる事なんて考えられない相手、なのに僕はあの日を境に彰広が、そして自分が…
まったく解らなくなってしまった。
外の雨が激しくなって来た。ガラス壁を無数の雨が鋭く叩き付けている。その反響は僕自身を突き放すほどに酷く無機質だ。激しさを増す雨水は幾筋もの滝となり、やがて外の景色を完全に覆い尽くしてしまう。
こんなふうに、事実を見えなかった事に出来ればいいのに。
(…それだって、楽な事じゃないんだ)
僕はもう、ずっと夏からそんな窒息してしまいそうな時を過ごしている。
(彰広)
ガラス張りのサンルームの、水に覆われた暗闇の向こう。
映し出されるのは白くぼんやりとした華奢な自分の姿と、それを取り囲むように床に散らばったままのグロテクスな擬餌のワーム。屈折した夜の明かりを吸い込んで、まるで奇妙な格好をしたジェリービーンズのようにきらめいてる。
奇妙ナノハオマエタチノ事ダロ?
紫色のそれを、僕は目の前に映る自分の姿におもいっきり投げ付けた。ぴしゃりと音を立て、それこそ虫のようにずるずると湿ったガラスの上を滑り落ちて行く。
こんな気持ちは嘘だ。
だって男だ、あいつも僕も。越える事なんて前提としてない、歴然とした壁がそこにあるじゃないか。それは、あの恭史さんの目の前にある壁よりもきっとずっと高い壁だ。
なのにそれをあいつは、そして僕は…?
僕を包み込む、暗闇と深まる雨の音。
部屋の隅に置かれた、鮫島が株分けしてくれた小さなポトスが雨の滴を映して左右にひょろりとツタを延ばし揺れていた。
「どうしろっていうんだよ」
問い掛けてみたところで、ポトスは人が肩を竦めて困ったみたいな格好のまま、何も答えるわけもない。
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