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「恭史さん…いないの?」
昼を過ぎると日差しが差し込む音楽教室。
いつも聞こえるピアノの音が今日はしていない。
「こっちこっち」
小麦色の腕の金の細い鎖が、さらさらと揺れた。教室の奥の、窓枠に腰掛けて手を振っているその人の顔を見て、僕は何だかホッとしてしまった。
あれから、ちょくちょくこうして僕は昼休みの音楽室に顔を出している。
ただし、条件付きで。
恭史さんは、ここへ来る時僕にメロンパンを持参する事を要求した。
『メロンパン、ですか?』
『そう、それも購買のベーカリーのヤツね。あれ、ウマイんだけどさ、俺並んで買うの嫌いなんだ』
ニッコリと微笑んで彼はそんな事を言った。
そんな笑顔見たら。
『…わかりました。購買のヤツね』
それで僕は今日もメロンパンを抱えて、ここでお弁当を広げて。
「誠君さぁ」
教室の窓まで届く楡の木が風に揺れてサラサラと音を立てている。
「何か今日尖がってるでしょ?」
「そうかな?」
「メシ、不味くなるから。やめなさい」
牛乳瓶の蓋を指で器用に外しながら恭史さんは言った。
どうやら不機嫌は人に伝染するらしい。
そして、食事をわざわざ不味くするなんて行為は人生においてなんて無駄な事だろうか。
これは僕のモットーのひとつなのだ。そのためにここに来て…せっかく恭史さんといるってのに。
気を取り直して、僕は買って来たメロンパンの袋を開けた。
「恭史さん、今日はピアノ弾かないの?」
「うん、今日はね」
「めずらしいね」
「そういう日もあるの」
サラサラと降り注ぐ穏やかな秋の日差しの中、風は心地よく、割ったメロンパンからは甘いラム酒の香りが広がった。
こんな時のなめらかな表情をする彼が、僕は大好きだった。彼のピアノも、この場を満たす雰囲気も。ここの空気のすべてが。
いつものように窓際で広げたお弁当。口付けた牛乳のガラス瓶。
包み込む指は、長くて繊細だ。
僕より学年がふたつ上の恭史さんは、夜になると、とある高級レストランでステージに立つピアノ・マンになる。それで教室の空く昼休みになると、時々ここに来て練習をしていったりするのだ。
ピアノに鍵は掛けられない。学校サイドにも彼のファンがいるんだろう。
彼は何でも弾きこなした。仕事ではポピュラーソングやオールディーズが中心らしいけど、リクエストがあれば、時々、あの時みたくクラッシックなんかも。
うちの学校ではもちろんバイトは禁止されている。でも、恭史さんは母親が経営している店のひとつで弾いているから一応ノーギャラって事になっていて、問題にはならないんじゃないの、って言った。そういうものなの?って僕が聞くと、俺ダブってるからさ、って恭史さんは答えたんだ。
『え』
絶句してた僕の顔はそんなにおかしかっただろうか。彼はそれを見てカラカラと笑い、『ちょっと体壊してさぁ。それで自主的に。音大付属首になったんで、途中からこっちの学校に移って来たってわけ。だから、もう十九だし』
夜の営業もOKなわけ。なんてね、家業っていえば家業だし、ホントはバレなきゃ何でもいいんだろうけどさぁ。って。
カラリと笑ってた恭史さん。
この時、僕も笑って良かったのかもしれない。そうなんだぁ、って軽く言ってそれで終わりに。だけど何だか、いやに明るい彼の笑顔を見ていたら…とにかくそんな気にはなれなくて。休学する程の病気をしたって事だ。音楽科に行っていたのなら、キャリアにどれだけのハンディキャップを負ったのか。挙げ句、僕はただ黙ったまま彼の方に自分の肩をコツン、とぶつける事しか出来なかったんだ。
『ほんの小さな事。大した事じゃないんだよ。何んとでもなる事さ』
恭史さんはそんな僕の肩を抱いて小さく呟くと、くつろいだ感じのする遠い目で窓の外を眺めたのだ。
それで、僕たちは少しずつ色んな話をするようになるのだけれど。
「ね、恭史さんはさ、良い恋愛してる?」
「何、急に」
「良い恋は人を育てるって、今日槌田が言ってた」
良い恋愛は、体にも心にも良いんだって。人として成長するための大切な要素のひとつなんだって先生は言ってた。
「へぇ、あいつそんな事言ったりするの。何だか高尚だね」
「って言うか、ちゃんと恋愛しろって」
「そうだね」
何の躊躇もなく彼は言った。メロンパン食べる?うん、って答えるみたいにあっさり。
「…そう?」
「そうでしょ。…って、じゃあ誠君はちゃんとした恋愛してないの」
「してないね。多分」
「お…っと」
開いた教室の窓から音を立てて風が流れ込んだ。
窓枠のカーテンがふわり、ついでにメロンパンの袋もふわりと舞った。
パシッとそれを掴んだ恭史さんのその腕で、サラリと金の鎖が音を立てた。
「…駄目だよ。恋愛はちゃんとしなくちゃ」
「どうして」
「だって恋愛、でしょ?」
そう、恋愛。
「それって、特別で大事な人とするもんじゃない。だったら相手に対してちゃんと真剣に向き合うの、当たり前の事なんじゃない?」
何言ってるの、って恭史さんの顔には書いてあった。
恋愛は特別で、大事な人とするもの。僕だって本当は、そうは思うんだ。だけど…
「都合が良いだけの相手なんて、良いもんじゃないでしょ。そういうの、恋愛って呼ばないと俺は思うしね」
何よりつまんないよ、と恭史さんは言い切った。
恋愛と呼べるのはきちんと相手と向き合った時だけだと、あなたはさらりと言うんだね。当たり前の事だと。
「…じゃあ恭史さん、ちゃんとした恋愛してるんだ」
「してるよ」
僕は空気が止まってしまったのかと思った。それはあまりに静かな答えだったので。
「ちゃんと愛し合うのが素敵だって事、俺、その人と見つけてる最中」
静かにはっきり、そう言った彼の瞳はとても澄んでいて。
「それでその事に、うつつ抜かしてるんだ」
「…そうなんだ」
澄んでいて、とてもとても深かった。正直、この時僕は少しだけ、その見えない相手に嫉妬した。だって僕といるのに恭史さん、この瞬間とても遠くにいたんだ。
「…きっと、素敵な人、なんだろうね」
恭史さんこの言葉にほんの少しだけ笑顔を覗かせた。
それはまるで、海の底に眠る真珠貝がほっこりとその懐を開けて大切な宝物を見せてくれたような、そんな優しさが漂う。
彼の、そんな深い場所に息づいている僕の知らないその人。
「…そう」
負けちゃったなぁ、って思った。
どんなに仲が良くて相手の事好きでも。友達は恋人にかなわないんだって事、思い知らされてしまった気がしたから。
何なのかな、この気分は。身体の芯にぽっかり穴が空いてしまったみたいな。
失恋したら、こんな感じがするんだろうか?恋を失くした事のない僕が言うのもおかしいけど、きっとこの感じはそれに似ている。
僕は、憧れていたなりに純粋に、恭史さんの事を好きだったんだ。
「良い恋愛、してるんだね」
「うん」
瞳にかかった透明で暖かな涙の膜。
ああ、本当に好きなんだね。それで愛しちゃったんだ、その人の事。そんなきれいな目して、言わないでよ。
「…むかつく。ノロケられた」
「誠君じゃん、その話に乗せたの」
「えっ、そうだけど、そー…」
やってらんねぇよ。
それでも僕の口からはこんな言葉しか出て来ないんだ、情けない事に。
ちゃかして、それでおまえ生意気って恭史さんに羽交い締めされて、めちゃくちゃだよ。
言えばいいのにね、いいじゃんね、羨ましいよって。
素直じゃないんだよ、本当。ばかみたいだ。
友達とか恋人にはこういう境界線があるって事は僕にもわかっていた。
ただ、わかっていても僕自身はそれを越えた事がない。それを目の前に突き付けられてしまうような事があると、軽い恐怖心すら覚えてしまっていたんだ。
僕には、苦い思い出があった。
「…でもさ、誠君」
ふざけて疲れて床に転がって、それでも恭史さんの出した声はいたって真面目だ。
「わかってるよ」
わかってんの、本当は。恭史さんが言うように恋愛するなら本気じゃなきゃって事。
そうじゃないとその人が目の前から消えてしまった時、何も感じていない自分に自分で首を締める事になるんだ、って事とか。
「知ってるよ。次ぎにするならそういう恋、するつもりだもん」
「そう?なら、いいけど…」
「わかってるって。そんな事分ってますーっ」
隣に横たわる恭史さんに向かって、僕はニヤリと笑ってやった。
「…なんかムカつく言い方ー」
見上げる窓ガラスの向こうは澄み渡った青空。そこにはひとかけらの曇りもない。
今日は週末だから、ひょっとしたら恭史さんは放課後その彼女と時を過ごすのかもしれない。心を見つめ合える誰かが見つかったら、そうやってきちんと恋愛をすべきだ。恭史さんはそれをしている。メロンパンなんか、食べてる傍らでさ。
僕にも出来るんだろうか、恭史さんが言うような恋愛が。
したいとは思う。愛してるのかよくわからないような、そんなあやふやな気持ちで僕はもう誰かと付き合ったりなんて、出来ないから。
「いい事、教えてやろっか」
ふと、恭史さんが口を開いた。
「俺の恋人さぁ…」
「うん」
「結婚してるんだ」
「…え?」
仰向けのまま、恭史さんは顔だけこっちに向けてニヤリと笑い返した。
世間はそれを不倫と言う。
「ええっ」
髪をかきあげたその手首できらり、ブレスレットに繋いだ羽根を象る金のチャームが艶やかな光を放った。
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