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秋空に、ヒコーキ雲がひと筋。夏の色はすっかり抜け落ちてた。
「つーわけでだ。この定数αがXのべき乗に係る時…」
あーあ。平日に限って何でこんなに天気良かったりするんだろう。
実際、こんな時の窓際の席じゃ、授業聞いてるのタルかったりもするけど。
「Yを表すグラフはどんなか」
先生の手のひらの上でポンと踊った小さなチョーク。
「答えてみな、呉!」
見事なベクトルでもってあいつのこめかみの上で弾けた。
「ッテ!」
効くんだな、これが。
ううっ、と呻いて頭押さえてバカな奴。クールな顔が売りのくせにリアクションがそれじゃ、ちっともイケてないぞ、呉
彰広。
槌田の数学でぼんやりしてるだなんて迂闊にも程があるって。
「なーにをボーッとしてんだ色男。あーん?何だ心ここにあらずってその顔はぁ…
さては、彼女の事でも考えてたか?」
「え?いやー、」
「そーかそーか。夏休み明けの今時分はなぁ、なーんかせつない気分になっちまったりするんだよなぁ。他の事なんて、もーどうでもよくなっちゃったりしてなー、えぇ?特に授業中とかなぁ?」
ちょうど、授業始まって三十分が過ぎたところだった。
「そりゃもう、何してても考えちゃうってね、あの娘の事。あるある、そういう時期は」
ひと夏の恋の名残火なんてぇのは切ないもんだよなぁ、俺もよ、って勝手に話し始めた槌田。
授業中断、閑話休題。息抜きのダシにされた当のあいつはどんな顔して聞いてんだか。
そんなもん、なのかな。
夏だから?
僕たちは高一で。高校生になれた今年の夏は、特に皆開放的な気分になれたはずで。多分、割増しでうつつを抜かしやすくてさ…オトナになったり、されたりとか?上手くやれた奴はイロイロ、そんな事もあったんだろうけど。
恋愛とセックスと遊びと。楽しく何も考えずにうつつを抜かしたい。
だけど恋愛っていうなら、それは相手に恋する事。相手と自分がどう思って通じ合ってるのかって事だ。
セックスもそりゃ込みだよ、だけどそれだけじゃなくて、本当にその人とそれをして通じ合いたいって思うくらい好きなのかって事。
相手が許してくれてるとかそういうんじゃなくてさ、その人をちゃんと愛せるのかって事だ。
このへんの履き違えって僕らにとっては結構微妙で厄介な事なんだよ。
ヤれるチャンスがあれば平気でグラグラする。衝動的な動物の本能。
だからそれこそ上手くやれて、心まで見つめられたのだったら言う事はない。だけど、僕は…夏の事は。
それは夏休みのキャンプの帰り、誰も居ない駅のプラットホームの上だった。
『……』
きっとそのせい。夏の夜の、熱い空気のせいだ。
何だか長い、不思議な沈黙だった。コンクリの床の上に置かれた荷物の上、体温が感じられる程に寄せられていたふたりの身体。
『……っ』
降りかかる漆黒の強い瞳を、繋いだまま僕は逸らす事が出来なくなった。
それで唇に、溶けながら乗った熱い吐息に。答えるように僕は薄く唇を開き。
理解も追求もしたくないのに、僕の頭は一杯になる。あれが何だったか、本当はもうひとりの僕は知ってた。だけど。
「恋愛は人を育てます」
恋は人を育てる?
「おまえたち、そういう良い恋きちんとケーケンしとかないと不味ーい大人になっちまうんだぞ?」
槌田が言って、クラスの中、一時くすくす笑いに満ちてた。
「しかしだ。そうそううつつを抜かされてっと、こっちも商売上がったりなんでな。何事も程々と、切り換えってヤツが必要だ」
まだ、チャイムが鳴るまで十五分。教卓のケースから真新しいチョークが取り出された。
「ゆえに、呉には罰として次週コマで使う教材の準備を一人でしてもらう事にして」
チラリ、時計を見た僕と槌田の目が合う。
「さっきの設問、代わりに親友の斉木、理由とともに答えてやんな」
…って、やっぱりこっちかい。
「マコー、マコマコマコマコ」
ようやくの昼休み。席を立った僕は財布を握り締めている。
「さっき悪かったなー。ちょっとココロ飛ばしてたらすーぐこれだし」
「別に」
数学なら問題ないし。そう言いながら僕は少し眉を寄せた。さっきの、まるで犬みたいな呼び方だったなぁ。
「ワンって吠えると餌でもくれたか?」
「何だって?」
困った顔してる僕の幼なじみ。犬はそっちか?
「マコっちゃーん、パン係戻って来てるぞー」
「わかったー」
「ちょっ、マコ?」
まっすぐに見下ろす黒目がちの切れ長の涼しい瞳。
それより、今はメロンパンだ。
出会った頃は確か。
僕の方がヤツより背が高かった。
なのに彰広、今じゃあっという間に僕を追い越して憎たらしいくらいの格好のいい男になってしまった。
高い背、長い足、小さな頭。短く刈り込んだ黒い清潔な髪。きれいに筋肉の付いた体はこんがりと灼けて、彰広はいつも涼しそうな顔をしている。
中身の方はあの通り、何だか格好つけてるどころでもなかったりするんだけど、近頃合コンやれば彰広が発情してそうな子ほとんどひとりで持ってっちゃうって、一緒に出た面子からは文句の嵐なのだ。
わかる気はする。
鎖骨も手足も、きちんと灼けてて香ばしそうで、バターなんか乗せたらきっととろりと溶けてそのまま染み込んでしまうんじゃないかってそんな身体で、ふざけた口調の合わない涼しい顔のまま女の子の視線をきっちり受け止めたりするんだから。
その、強い瞳。その気にもなるんじゃない?意識してやってるのかなんて知らないけど、どっちにしても、僕なんかには真似のできない芸当を彰広は持っているってわけだ。
でも、そうやって釣った(いや、釣れてしまった?)女の子を彰広がどうしてるのか、実のところ僕はよく知らない。
付き合いは長いけど、なぜか彰広とだけは互いの彼女の話をした事がない。これまでその事について、あまり興味もなかったんだけど。
小四の時、彰広が転校して来てからかれこれ六年。それからずっと友達やって来ている。槌田の言うところの、親友ってヤツだ。
実は他にも三人、一緒に遊ぶ仲間がいるんだけど、今じゃ一番僕の近くにいる…
ゲットしたメロンパン抱えて僕は音楽室へと急ぐ。
「あれぇ、マコちゃんは今日もおでかけなんだ?」
「そう」
「いっつもメロンパン抱えて、どこ行ってんのォ、マコちゃんは」
「教えてやんねぇー…って、それよりおまえら何でまたちゃん付けで呼んでんだよっ。やめろって言ってんの、ちっとも聞いてねぇのなっ」
えーっ、だってマコちゃんはマコちゃんだよなぁ?ってな事言ってる奴らに中指突き立ててみても、似合わねぇからカワイクない事すんなー、なんて声が返って来て。
なぁ、いいんだよカワイクなくて。おかしいだろカワイイとか。その、ちゃんって言う微妙な語尾の上げ方もどうにかしろって。
「もう、全然わかってない。なーんでおまえらごっつい野郎になんかなぁ。そゆの許されんのはキレーなお姉様だけ。後は呼ばれたくもねぇー」
お兄様の間違いじゃねーのか、って声が聞こえたので面倒臭くなった僕は、あーもうどっちでもいいよ、と投げやりに答えた。男子クラスで女子がいないからなのか、いつもこの調子なんだ、このクラスの連中は。いいの、僕はこれから成長すんだから。
教室から出る時、チラリと彰広と目が合った。
さっきの数学の時間、斜め前の窓際の席であいつがぼんやりと天井だか窓の外だかを眺めていたのを僕は知ってた。
その時の考えてた事が、槌田の言う恋の事かどうかなんて、僕は知らないけど。
背中に感じた僅かな視線を、僕は完全に無視した。
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