Dear.





-2-



あれは高校一年の九月の頃。
その日は暖かくてとても天気が良く…そう、海を見に行きたいような、そんな爽やかな風が吹いていた、秋の日の昼休み。

「あれ、マコっちゃんは?」

天気が良かったから、その日は教室の外で昼ゴハンを食べようって奴が多くて、僕の仲間もそんな事を話していたように思う。

「…そういや姿、見えないけど。トンズラ?」

「何だそれ」
 
「っていうかさぁ。最近急にいなくなったりするよね、アイツ」

本当に気持ちの良い日だった。

「どうしたんだべなー」

「…青い性の悩み多いお年頃なんじゃね?」

「は?」

こんな日に中庭でお弁当を広げたら、さぞかし気持ちの良いことだろう。
だけど、その日も僕は。

あの頃、僕はあまりに頭の中が一杯で。

いや、別に考える事が多かったからとか、へんに高尚な悩みを抱えていたっていうわけじゃない。
ただあることが…胸につかえてしまったまま、時々どうしようもなく僕を苦しくさせ、困らせていたのだ。

こんなにも天気が良く、気持ち良い風が吹いているのに。
気分は晴れやかになるどころかますます…僕は僕でいられそうになくて。

それでフラフラと、どこかひとりになれそうな場所を探して僕は彷徨っていた。
彷徨って…あの音に、あの人に出会ったんだ。

最初は風に乗って。

それからは明確な意思でその音を辿って。
気付いた時には教室の扉を開け放っていた。

青く澄んだ空を背にしてその人はいた。

第一音楽室のグランドピアノの前、彼が弾いていたのはラヴェル。
それは、小さな緩やかな流れが幾つも束ねられて渦巻き、やがて大きな奔流となって…

 『水の戯れ、っていうのよ。私これが早く、上手く弾けるようになりたい』

ふわふわした髪の、細い赤いリボン。

名前と同じ鳥のような声で彼女が、あんな事になる前の最後の日曜日、それはただ一度だけ聞いた曲で。

(こんなふうに、きっと)

あの子は弾きたかったんだと思う。アルペジオ…トリル、グリッサンド。
もう、聞くこともないと思っていた。

(あれから一年?)

僕は彼女のこと。

その時、太陽が傾いたのか、それとも掛かっていた雲が流れたんだろうか。
薄暗かった音楽室の中は、滑るようにして差し込んだ陽の光で一杯に溢れ返った。
そして力強弾かれた鍵盤に、溢れ出した音。

降り注ぐ陽光の中、その人は僅かに瞳を閉じたまま。
きっと触れたらサラリと音を立てただろう、陽に透けて金にみえた髪。
うっすらと色付いた小麦色の肌の、しなやかな体中から溢れ出た彼の旋律が、まるで。

錯覚なんかじゃない。
彼を取り囲んだそこここに、音が、光が。
乱舞しているのを、僕は見た 。

 「きらきら光る、水の雫だ」

僕は呟いたらしい。
フィ、と彼が瞼を上げて僕を見た。
透明な琥珀の瞳は、笑っていた。

それだけで僕は、何かもう。



「いきなり入って来た奴なんてはじめてだ」

その曲の最後のキィを静かに押さえてその人は言った。
それでようやく僕は我に返った。

「ご、ごめんなさい」

「あぁ。ほんと、悪いね」

そう言った彼の切れ長の瞳は、他に言いようもなくバカみたいに突っ立った僕を眺めて面白そうな色を称えてた。

その場に落ちた、陽だまりの中の沈黙。

破ったのは、

「昼飯、食べるつもりで来たんなら、その辺にでも座ったら?」

サンドイッチの入った袋を下げて、突っ立ったままの僕はきっと赤面してた。
それから、慌てて机に腰をぶつけて笑われた。


それが恭史さんと僕との出会い。
ひと握りの価値観の中でもがいていた僕と、
そんなものはとうに飛び越えてしまっていた、彼との。




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