-12-
夜が早い。
しばらくベッドに寝て家に篭っている間に、すっかり街は冬の装いになってしまったようだった。
樹木に瞬くイルミネーションが眩いくらい闇に浮かび上がっている。その分、空気が冷たいって事だ。
流れる人の波が慌しい。
七時。
からくり人形が踊り出した。
七色にライトアップされた噴水の、聞き馴れた華やかなオルゴールの音。
同時に僕の隣に立っていた無表情の女の子の顔がパッと明るくなった。
ただ、ひとりのためだけの笑顔。
待ち人はどうやら彼氏だったみたいで、そのままふたり寄り添って夜の街のどこかへ消えて行った。
僕の待ち人も、この曲が終わる前に来てくれるといいのだけど。
時間にのりしろ無くあいつはいつも正確だから。
僕は余計に待つという事がいつも無かった。
朝、学校に行く前二階の窓から門の上がりの階段にあいつが腰掛けて待っているのを確認する。それから僕は階段を下りて行く。
待たせていたのはいつも僕で、待っていたのはいつもあいつだった。
いつも、待たせてた。
「…何で、マコがここにいるんだ」
背中に抑揚のない低い声が響いた。
「何でだろうな」
振り返った僕。それを見返す彰広。
「コウちゃんは来ないよ」
イルミネーションを背にして目の前の彰広は困惑に表情を隠していた。
「少し、歩かないか?」
吐き出した息の白さだけが、際立っていた。
「こうして歩くの、久しぶりだね」
「ああ」
「今日、他に予定は?」
「無い」
僕は横を歩く彰広に歩幅を合わせた。並ばせた肩、それと頭の位置が違う。
ほんの少しの間だったのに。
彰広、また少し背が伸びたんだね。
「どうして僕が待ってたか、釈然としないって顔してるな」
「そうだな」
「コウちゃんにはね、僕が頼んだ。だって、おまえ来てくれなかったら困るからさ」
僕は彰広を見上げた。僅かだけど、その横顔が緊張しているのがわかる。
僕が直接電話してたら、何か理由付けてきっと来なかったな?
「どうしてもって思ったからさ」
僕たちの視線が合った。
「彰広に会いたかったんだよ」
一瞬だけ震えた睫。彰広はすぐに僕から視線を外した。
あいつはこの頃僕をちゃんと見詰めてくれなくなった。
「…それはどうも。で、何なんだ?学校でも会ってんのに、わざわざ呼び出したんなら、何か用事があったんだろ」
「うん。あのさ、終わりにしよう、と思ってさ」
彰広は歩くのを止めた。
数歩進んだ先で僕は振り返り、立ち止まったままのあいつを見詰めた。
すっきり余分な肉の削げ落ちた頬。
ロングコートに覆われたかっちりとした肩、膝から下の長い足。
その先の、コウちゃんがゲットするはずだったスニーカー。
通りを急ぐ人波が、突っ立ったままでいる僕たちを邪魔そうな顔で迂回して行く。流れに取り残された僕たちは河の中に穿たれた杭のようで。
急ぎ通り越そうとした人の鞄がぶつかって、彰広はハッと顔を上げた。
「なんて顔してんだよ」
彰広はただ僕を見ていた。
僕は、僕たちの間を人の波が埋めてしまわない内に歩み寄り、あいつの腕を取った。
「このままでいいわけ、ないもんな」
彰広は小さく、ため息付くみたいにして側の車止めに腰を下ろした。
僕もその脇に並んで腰を掛けた。手をついたピカピカの銀は冷たくて、つい肩を竦めずにはいられない。金属特有の冷たさは冬のもの。
そう、もう冬。
それだけ僕らは立ち止まっていたんだ。
「ごめん、っておまえは僕にこの間謝った。だけど彰広、謝らなきゃならないのは、僕の方だろ」
歩道に投げ出された長い足。そのつま先だけを彰広は見詰めていた。
「わかってて、何も知らないふりして。ごめん、それで今までが続くならそれでいいと思ってたんだ」
車のライトが後ろから僕たちの顔を照らして行った。
その明かりに時折浮かび上がる彰広は、傷付きやすいような壊れてしまいそうな、何だかとてもいたいけな表情をしていた。
きっと、それは僕の一言で幾様にも崩れてしまう。
僕は、それをとても愛しいと思った。
「でも、それももう限界なんだ。息が詰まって。おまえはそうじゃない?」
彰広は目を伏せ、黙ったまま通りを向いていた。
僕は息を吸い込んで言った。
「駄目なんだよ、おまえじゃなきゃ」
彰広の伏せた睫がゆっくりと上がった。
「苦しくて、駄目なんだ。言ったろ、居なきゃ嫌だって。聞いたから、あの時傍に居てくれたんだろ?」
熱に浮かされて苦しんでた僕を、あの時彰広は母が帰って来るまでずっと傍で看ていてくれた。
前髪をのけて噴き出す汗を拭い、不安に空を彷徨った僕の手を握り返してもくれた。あの時、僕が熱に付き物の怖い夢を見なかったのは彰広がそこにいてくれたからだ。他の誰でもなく、彰広だったから。
それで僕がどんなに安らかな気持ちになれたのか、きっとこいつはわかっていない。
「風邪がずっと治らなかったのも、無理して学校通ったのも、
おまえが傍にいないからだ。変わらず僕に笑いかけるくせに、目の前にいるのに、おまえが僕を突き放すから。勝手に、決別すんな、思い遣るなよ…僕を、窒息させる気かよ」
「マコ」
「夏の時、あのままキスしちゃってれば良かったんだ。そしたらきっと何も考えずに気付けた。僕は」
「それは違う。マコ、流されたんだよ俺に。あんな事さえなければ、こんな風におまえは考えなかったろ……間違ったら駄目だ」
「僕はもういいって事?」
彰広の唇が少し開いて閉じた。
「やっぱり男だからか。次の誰か、出来たから?」
彰広に告った加納先輩、それから名前も知らないけど、近頃彰広とつるんで歩いてた女の子達。
彼女達におまえが本気なのか本気じゃないのかなんて、そんなのは知らない。
ただ、おまえの隣のその場所に僕は。
「僕は、もういらないか」
僕は友人で、あの子達は彼女で。そう当たり前に見えるその場所に、僕はもういらないのか。
…いらなくない。
喧騒に負けた掠れた呟きがした。
「いらなくないよ。俺が欲しいのはずっとマコだけだったよ。男とか女とか、そんな事でもなくて」
目の前を通り過ぎようとした女の人が彰広の声にちょっとびっくりして振り向いたけど、彰広はそれにかまわず続けた。
「なぁ、本気なのか。マコは本当にわかってんのか。俺を傍に置くって事は、あの時みたいに俺…おまえの全部、欲しがるよ」
あの時感じた彰広の絡みつくような熱さ。
僕は息を止め、胸に手を当てた。
「そう俺が思うのを許せるのか。同じに思う事が出来るのか。おまえにそれは無理だ、そう思ったから一度俺は引いたよ。だから、認めない。言って、やっぱ止めたなんて、そんなのは絶対に許さないか…」
「もう、考えるの止めたんだよ」
彰広の言葉を僕は遮った。
「分らないから。何が…これが恋愛かなんて、正直まだよく分ってないよ。おまえと普通の恋人がするみたいに出来るのかも分らない。でも、今そんな風に言われて苦しいよ、この、動悸が止まらないんだ。彰広がいないと、淋しくて、僕は駄目なんだ、誰より」
手のひらの下で心臓が大変な事になっていた。底冷えする空気を無理やり肺の中に吸い込んでさえ、それはどうにもならない。
振り絞るように僕は言った。
「彰広がいい。だから、傍にいて」
これが僕のすべてだった。
彰広は、開いたコートの中で僕を抱き締めた。そうする事で、僕たちの間に開いてしまったここ数ヶ月の虚しい時間をすべて圧縮して行くみたいに。
乾いた優しいにおい。
僕の心臓は相変わらずドキドキ脈打っていたけど、
今こうされている事に、もうこの間のような怖さは感じていなかった。
「…震えてないな」
「うん」
「俺はおまえを傷付けたくない」
「うん」
「知ってるくせに…おまえはずるい」
僕を囲う、柔らかくて心地いいの低い声。
それでも、と囁いて彰広は僕の耳に唇を押し当てた。
押し当てて、そのまま僕の名前を唇で象った。
熔けてしまいそうな熱い唇。
ため息が漏れ身体が震えた。
「誠、大好きだ」
言って彰広は啄ばむようにそこに何度か口付けた。
耳から入って、心に零れ落ちて行くその言葉。
落ちて、僕の内側に波紋を残す。
好きって言われたら、心地が良い。おまえが言う言葉だから、おまえだから。
僕はコートの下の広い背中に腕を回した。
互いを繋いで受け入れるための、一方的じゃない抱擁はこんなにも心地が良く。
だからさ、僕はやっぱりおまえの事、
「彰、」
…ん?ちょっ、舌…
な、な、何を。何をしだすんだ、コイツは。
「…ばっか…っ、てめー、調子乗ってんじゃねぇよ!」
多分真っ赤になって腕の中でもがき出した僕を、彰広は笑いながら、でも少し力を入れて抱き直した。
「はは、やっぱ、マコはこうじゃないとな。こういうトコがかわいいって…」
「おいっ」
「ぁあ、わかった、わかったって。でも、後少しだけ、このままで…な?」
「……」
僕は諦めて力を抜き、そのまま腕の中で瞼を閉じた。雑踏の音が耳に帰ってくる。通りを行き交う人達の視界に僕たちの姿は入っているのだろうか?入っていたとして、それはどんなふうに映るんだろう。
街にはいろんな人達がいる。
同じようにスーツを着てネクタイを締めてもパンプスを履いてても、抱えてる悩みや幸せはきっとひとりごとに違う。善しとする事の範疇だって、少しずつ本当は違うはずだ。
だから何が特殊だなんて、誰に言えるんだろう。
僕は耳を澄ました。コンクリートの上を靴が叩くたくさんの音、何かを忙しなくしゃべり続けるスピーカー、誰かが誰かを呼ぶ声。
そんないろんな音がするこの雑踏の中でだって、僕が聞きたいと思うのは彰広の声だけ。このコートの中の空気を共有したいと思うのも、今は彰広とだけだ。
いいのか悪いのかなんて全然分らない。でもなるようにして僕たちは多分こうなった。だからもう、その事については考えない事にしたんだ。
そしてどうなるかなんて事も。
そんな事、僕にも誰にも言えやしないし、分かりやしないんだから。
僕は彰広が側にいなくちゃ嫌で、彰広もそうなら。
とりあえず。
ここで抱き合ってる事だけが僕たちの真実だ。
「あんな微妙な話。ふつー誰も居ないところですんじゃないの」
コートを開いて僕を解放した彰広は、中から出て来た僕に慄く通りすがりの人々を無視して、再び流れの中に僕を連れ出した。
視線にさらされ固まりかけていた僕に、それはすごく助かったんだけど。
「嫌だよ、誰も居ないとこなんて、出来る訳ないじゃん。そんな事したら、おまえすぐ…さっきだって周りの事、十分無視してくれやがって。言っとくけどな、そういう事は女の子とするもんだと、まだ思ってるからな」
「ホントに? 」
「仕方ないだろ」
「…でっかな課題」
「僕相手にそう簡単に出来るおまえの方が問題だ」
「グサっと来る、それ」
通りを歩きながら彰広はため息を付き、前を開けっ放しにしたコートの左のポケットにおもむろに手を突っ込んだ。
「あっ…何だよ、マコ、それ」
彰広が掴むより先に、僕は彰広のポケットの中の物を奪い取った。左のポケットにはチューインガム。彰広の習慣なら僕はよく知ってる。それと、どういう時にガムを噛むのかも。
「最後の一コだったのに」
銀の包み紙を開いて僕はそれを口に入れた。瞬間、ひんやりと口の中に甘く溶け出して、行き場をなくした余分な熱を奪い去る。
「彰広にはもう必要ないだろ」
「何で」
「僕がいるんだし」
僕が足りないとガムが欲しくなるんだろ?
彰広は苦笑して言った。
「なら、キスさせてくれんの?」
「何言ってんの」
僕は並んで歩く幅を狭め、舌打ちしたあいつの肩口に耳を傾けて頬をくっ付けた。
「とりあえず、傍にいるんだろ。後はおまえの腕次第なんじゃないの?」
それで僕はコートに覆われた下の、香ばしく灼けた彰広の肌の事を密かに思った。
おまえがセクシーなの、僕だって良く知ってるよ。例えば、その少し厚めの熱を持った唇とか、整った指の先の心地のいい冷たさとか、僕を見つめる時の震える睫、瞳の色。それらが僕の息を苦しくさせるのと同時に、本当はとてもせつない気持ちにさせていた事。
「だから何だってば、この手」
腰に回って来た彰広の手を僕は軽く払いのけた。この事は、しばらく内緒だ。そう思って、ちょっとだけ僕は胸の奥で甘さを飢えた。
(甘い?)
僕はふと思った。
「なぁ。メロンパン食べたくなる時の気持ちって、どんなだと思う?」
恭史さんの店に行ったのは、その晩の事だ。オークの扉の向こう、フロアに流れる軽やかなピアノの音。ブルーのシンプルなシルクのシャツを着て恭史さんはそこにいた。
ステージの上から僕を見つけた恭史さんはチラリと僕らに笑いかけた。でも、ちょっと不思議そうな顔もしたんだ。女の子を連れて来ると思っていたんだろうな。
一応、友達と行くって言ってはいたんだけどね。
「高校生風情の来る店じゃねーな」
彰広がまわりを見渡して言った。
そんなに気取った店じゃなかったけど、確かに子供の来るところでもなかった。
案内されたテーブルの上にはReserved.の文字とココットにまとめられた上品なブーケ。その側でフロートキャンドルの明かりがゆらゆらと揺れている。そんな空間に、そこはかとなく織り込まれて行く恭史さんのピアノの音はすごくシックな感じがした。
まわりはほとんど大人のカップルかグループばかり。だから、僕たちはその中でちょっと浮いていたのかもしれないけど、こういうところでは皆自分たちの事にしか興味がないのが普通なのだ。
上等な客が来る店では無遠慮な視線をほとんど貰わずに済むという事を、この時僕たちは学んだ。
「社会勉強しに来たお子様だね、僕たち」
僕はピンク色の液体が注がれたフルートグラスを持ち上げて、そこから彰広を透かして見た。ゆっくりと立ち上がって行く小さな泡、その向こうに広がるあいつ。頬杖を付いて口をちょっとへの字にして僕の事見ている。
数時間で劇的に何が変わるなんて事もない。だけど僕たちの間の空気はとても柔らかだった。例えば、こんなふうに少し黙っていても苦しくないって事を、しばらく僕たちは忘れてしまっていたのだから。
「ま、どこでもいいか。マコのそんな顔見れるなら」
沈黙の後、ふいに彰広は言って小さく息をした。
その時、照明がゆっくりと落とされて、他の席から歓声と短い拍手が上がった。恭史さんにスポットライトが当たる。ショータイムだ。
今夜の主題はアメリカのようだった。この間音楽室で弾いていたガーシュインの曲、それからどこかで聞いた事のあるオールディーズのアレンジ。次々と繋ぎ合わされて、歌詞が紡がれて行く。
「…,We got thing going on」
ふいに、恭司さんの口から紡ぎ出された歌詞は有名なフィラデルフィア・ソングだった。
これって、確か。不倫の歌。恭史さん…もしかして彼女のために弾いてるの?
恭史さんはここだけ、譜面を追わず客席に視線も振らず、ただ瞼を閉じて弾いていた。唇がその詞を形作り、耳に刺したクリスタルのピアスがライトの中できらきらと揺れていた。
きれいだった。
初めて会った時も、恭史さんは光の中できらきらしていた。
陽の差し込んだ第一音楽室、グランドピアノの前。暖かな風が吹いてた。
そこで水が戯れて行くみたいに、きらきらと彼は違う流れの中に。
どうしてだろう。僕の視界を涙の薄い膜が覆った。
「We both know that it’s wrong. But it’s much too strong」
(それが過ちだって知ってるけど、止められないほど思いは強いんだ)
「If loving you is wrong, I don’t want be light」
(もし君を愛する事が過ちだというのなら、僕は正しくなんてなりたくない)
僕はつい彰広の顔を見てしまった。彰広も僕を見ていて、何となく僕たちは赤面した。それから、ふたりで吹き出した。
このへんが、僕たちまだ子供だったんだと思う。
曲の中盤にさしかかったところで、外に繋がる通路から誰かがフロアに入って来たのに僕は気付いた。
上質そうなスーツに身を包んだ男の人だった。コートを預ける余裕もなかったらしく、脱いで腕に抱えたまま、肩で息をして掛けた眼鏡のグラスを白く曇らせていた。
入り口に近い席の人の椅子に足でも引っ掛けたのか、一部で場の空気が揺れて注目を引いてしまったのだ。それで彼は薄暗い中を進むのを諦めて、そのまま端の壁で立ち止まった。
だけど僕がその人に注目したのは別の事でだった。
コートの腕の反対側。彼は、雪のように真っ白な大きな薔薇の花束をそこに抱えていたのだ。
真冬の、白い薔薇の花。
高潮を迎えて恭史さんの演奏が跳ねた。
拍手の音にハッとした僕は恭史さんの方に慌てて向き直った。立ち上がった恭史さんは満面の笑顔をフロアの中に振り撒いて行った。そして僕たちの方にも視線をくれた後で、最後に遠くのただ一点だけを見詰めたのだ。
その視線が向かった先はあの花束を抱えて駆け込んで来た男の人で、それは一度だけ僕も見た事のあった、あの深く静かな瞳で。
その時、ステージの上の恭史さんがその一瞬だけ酷く無防備な姿に見えた。
そんな顔を僕はついさっき、目の前の彰広に見たばかり。
それを僕はとても愛しい、と。
「うそ…」
恭史さんの恋人って、もしかして。彼?
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