五月 水面には君という波紋
海を見に行こう、ってそう言ったのはどっちだったかな。
連休の谷間、その日は部活も無くて、穏やかで明るい日だった。
いつもの帰りの電車、いつも降りる駅をスルーして、僕とあいつは海岸に歩いて出る事が出来る少し先の駅までそのまま乗り越す事にした。
各駅で電車が止まるごとに乗客は一人二人と減って行く。平日の午後は人影がまばらで、カタコト、カタコト、と車両が揺れる音まで穏やかだった。
目的の駅について、ホームに出るともう潮の香りがしていた。
冬の刺すように冷たい感じとも、夏の体液に近く生温くて酔ってしまいそうな感じとも違う、微かに甘くさらりと肌の上を滑り溶けて行く初夏の海風。
途中、自動販売機でアイスコーヒーを二つ買った。一つはミルク入り、もう一つは無糖。緩い下り坂の下、空との境が揺らぐ水平線、海までは白い砂雑じりのアスファルトが続いていた。
行く先に並ぶ二つの影帽子、途中通り過ぎた車は一台だけ。静かな午後だった。
僕たちは、海へ向かった。
二人だけでここへ来たのは初めてだった。この季節に来たというのも。
ここは僕らの家からそれ程遠くなく、手軽に来れる海水浴場だった。
それぞれにそれぞれの思い出がある。重なる思い出も、ある。
去年夏休みは、仲間数人で僕らはここへ遊びに来ていた。
お約束のナンパ、女の子達としたなんちゃってビーチバレー、奢ってあげたカキ氷にちょっと軽くなっちゃった財布。
砂だらけになってバカみたいに遊んで、散歩に連れられて来た犬に誰かさんは何故か吠えられて追いかけられたりもしたっけ。
帰りは帰りで幾ら流しても砂だらけの海パンに辟易し、水だけしか出ないシャワーにまた僕らはひと騒ぎして。
目一杯遊んだ代償は、泳いだ後の心地よい体の重さと残った太陽の火照り。肩の火膨れの兆しと、すでに真っ赤になってしまった鼻の頭。
電車に揺られて帰る途中、僕はいつの間にかあいつの肩を借りて眠っていた。
カタンコトンと揺れる電車、淡い冷房、そこにほんのりと同じく太陽のなごりを残したあいつの浅黒い肩に頭を預けた。微かに潮の香りが残っていた。丁度、今のこの季節の風みたいな。
春が終わってまた暑い夏が来る。でも、僕はあの時と同じようにあいつの肩を借りられるのかな。
防風林の下、打ち上げられたままで朽ちてしまったボート。
砂の上、肩を並べて僕とあいつは買って来た缶コーヒーを飲んだ。
飲み下す、喉仏の辺りが僕の視線の届く場所だ。低い、僕が心地良いと思う声が出る源。子供のときの声も好きだったけど、記憶は今の声に摩り替わって行く。
近くであいつをよくよく見るのも、ちょっと久しぶりだった。
それぞれの部活で大会や試合があって、僕はあいつの応援にも行ったが、今年僕らは中堅なだけにとにかく色々と忙しい。こんな風にただ側にいて、ただ時間過ごすっていう事をしていなかったよな、と気付く。
ぽつり、ぽつりと会話を交わし、僕は遠く水平線の向こうを見ていた。
合間に流れる無言の時間は、太陽と潮風に埋められて行く。
こいつがいて、波の音が聞こえて、明るい休日みたいな昼下がりの午後。
誰の何の干渉も無い。
僕は一つ、ほぅ、と細く唇から息を吐き出した。吐き出された息は甘い潮風に溶けて行った。空虚さなぞない、何も足し引きもないため息。
満ち足りるってこういう感じを言うのかな。
ふと僕は視線を戻した。すっと日の光が翳った。
あいつに柔らかに覗き込まれても、その時僕はそれがおかしな事だなんてちっとも思わなかった。いつか見た時のような、怖いような目の色をしたあいつはそこにいない。僕の今の気分を映したみたいな目。僕はどんな顔をしていただろう。きっと同じような目をして、あいつの事を見ていたんだろう。
甘く滑って行く潮風。
重なって、繋がった柔らかなところの、甘やかなあいつの体温。
砂の上で重ねられた指は硬質で、絡められた舌先はとても柔らかで。ぬるま湯をかき混ぜて行くみたいに互いに互いが染み渡って行く。
波の音、潮風、瞼の奥に日の光。
「もう少し、このままで」
砂時計の流れをを止めたみたいな隙間の時間、触れる唇のままに任せ境を越え僕はあいつと繋がった。
新たに記憶に重なる潮風の香り、加わったコーヒーの残り香、温く柔らかな触覚。
僕は、変わった。
あいつは、どうだろう。
さざ波のように心に広がる波紋は、そうして僕の中に緩やかに広がって行く。
end.
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