三月 続く日々も君とありたい
夜更かしにも早起きにも強くない僕が、目覚まし時計の針を一時間早めて起きる事がこのごろの習慣になった。
まだ春浅く、朝靄の立つ窓の外は薄青い。
まるで暗い水の底に沈んでいるみたいな。けれど、もう少ししたらあの坂の上が少しずつバニラ色になって、朝の新しい光がこちら側に射して来るはず。
僕は窓を開け、その日の真新しい生まれ立ての空気を吸い込んだ。
シン、と肺の中に落ちて行く冴えた空気。手っ取り早い、目覚めの儀式だ。
そして、机のスタンドの明かりを付ける。
パラリと捲ったテキストの新しいページは昨夜の塾の宿題の続き。
開いたページの項目をペンの背中で軽く一回ノックして、僕はやり残しの課題に取り掛かった。
来週からはもう春休みだ。
この一年は早くて、なんというか、本当に色んな事があった。
受験があって、高校生になって、幼馴染みのあいつと同じ学校に進学し、偶然にも同じクラスになった。それで、今までよりももっとずっと、あいつの近くに居るようになって。
それで夏に。
僕とあいつの関係が変わってしまった。
その気持ちはとてもやっかいで苦しく、身の内で知らない生き物を飼い慣らしていくようなもので。
僕はその気持ちを上手く受け入れる事が出来なくて、戸惑い、迷い、そして。
ノートに走らせてたペン先が止まった。
タッ、タッ、タッ、タッ。
小さく、窓の外から聞こえて来る軽やかで規則正しい音。
エアクッションのソールがアスファルトを蹴り出し、こちら側へ向かって走って来る足音。
僕はそっと、開いたブラインド越しに視線だけ動かして外の通りを確認した。
水の中から引き上げられたみたいに明るくなって来た坂の上、そこからこちらに向かって降りて来る影、グレイのパーカーのトレーニングウェア。
タッ、タッ、タッ、タッ。
小気味良い規則正しい足音。
あいつがこうやって学校に行く前、ランニングをしているっていう事はずっと前から知っていた。地道な早朝自主トレ。
思えば小・中・高通して、クラブでずっとレギュラーの位置にあいつが居れたというのも、才能や実力の他にきっとこういった努力があったからこそなんだろう。
だけどあいつはそういった努力をひけらかさない。ストイックで直向きなところがある。
そういう事を知っていて、僕はこれまでその時間、ただ当たり前のようにだらだらとベッドの中で微睡んでいたのだけれど。
今年に入ってから僕はひとつ習慣を変えた。勉強時間を夜型から朝型に切り替える事にしたんだ。夜も弱けりゃ朝も苦手の、この僕がだ。
去年の秋の進路調査で、来年度から僕はあいつとクラスが分かれる事が決まった。
その調査があった頃、僕とあいつはとても微妙な関係にあって、互いに直接その話しをする機会はなかったけれど、元々文系が得意なあいつと理系が好きな僕だったからいずれはこうなるんだろうなって、それはなんとなく分っていた。
あいつは野球を高いレベルで続けていたし、もしかしたらスポーツ推薦を貰うのかもしれない、とも思っていた。
僕が辞めてしまった野球を、あいつはずっと続けている。
好きな事には、とてもひたむきにストイックに。
タッ、タッ、タッ、タッ。
フードを目深に被ってるからその表情は窺えないけれど。
タッ、タッ、タッ、タッ。
規則正しく、一定の速度で響く足音。
進む道が分かれる。
それは、すでに他の親しかった友達とは経験済みの事だ。選択肢が多い中で僕が高校まで一緒にあいつと上がれたのは本当に軌跡みたいなものなのだって思う。もし、この先同じ大学に進む事が出来たとしてもキャンパスは別れることだろう。
取り合えず、来年度学校の中で僕とおまえが机を並べる事はない。
今迄当たり前に眺めていた片側だけエクボの浮かぶ横顔も、肩幅の広い背中も、授業中見れなくなるけれど。
年明けに二人で朝陽を見た。
『おまえとだけしか出来ない事とか時間、たくさん作って、重ねて行きたい』ってあいつが僕に言った。
僕らでしか出来ない事って何だろう。
他の誰とも経験して無くて、他の誰かとは出来ない事。
僕らしか、知り得ない事。
僕らしか?
何にしたって、全てがそうだろ。
色んな事に迷い、戸惑い、どう振舞ったらいいのかなんて考えて、いつも気を使わせてしまってばかりいたけど。
それでも、これだけは言えるよ。
進む道が違っても、僕はおまえを見てる。
そして、続く明日もおまえと一緒に居たいって僕は思うから。
ここからは、僕らが作る物語だ。
おまえがそうしているように、僕は僕なりに、僕が出来る事を、しなければならない事をこれから頑張ろうって思った。
そうやって、僕はおまえの隣りに立って、見ている先が違っても進む足並みだけは揃えて行こうって思ったから。
タッ、タッ、タッ、タッ。
小気味よく響く、これが一日の始まりの音だ。
坂の上がバニラ色に染まり、ブラインドから差し込んだ陽の光がノートの罫線に寄り添うように細い縞模様を作る。
止まる事無く通り過ぎて小さくなって行ったその足音を確認して、僕は再び机の上のテキストに戻った。
もう四、五十分したら。
その、窓の下の門の上がりに、またあいつが腰掛けているのを見るだろう。
いつも通り、坂の上からあいつは学校に行く前に僕を拾いに来て、時計を見た母に呼ばれて、階段を下りながら僕はその制服の姿を確認する。
それで僕は言うんだ。
「おはよう」
今日、本当は二度目の挨拶を。
end.
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