四月 きっとなにかがはじまる
「じゃあな」
そう言って別れる朝の昇降口。今朝は軽く指先だけ触れ合わせて、僕とあいつはそれぞれ反対側を向いて自分のクラスの下駄箱へと歩いて行った。
進級、クラス替え、新しいクラスメート。
選択クラスが違うから、授業のコマもあいつと僕とでは色々と違うし、履修の教科が同一の場合でも担当の先生が違う。
春休みが終わって新学期、蓋を開けてみて改めて愕然とした。予想はしていたけれど、僕とあいつは会わなくなった。同じ学校の中に居るのに意識して行動を合わせないと、本当に会わなくなったのだ。別に、ここには勉強しに来てるんだから、会わなくたって死ぬ訳でもないし、別にあいつとクラスが違った事なんて、これが初めてって訳でもないけど。
授業中に顔を上げると目に入っていた広い背中と黒く短い髪。頬杖をつく仕草、傾いた横顔、そこに時々現れたエクボ。この間迄ごく当たり前にそこにあったもの。
ないんだ。
教室の中でそう意識したとたん、自分を取り巻いてた空気に酷く質量を感じた。
見覚えのない新しい水槽に、新しい水と一緒に放り込まれた魚みたいな所在の無さ。僕はそのまま沈み込み、息を潜め縮こまる。
そしてふつ、ふつ、と毛穴から小さな泡が立ち上って行くような感覚。
不安が小さな泡の形で少しずつ体から立ち上って行くような錯覚。
しっかりしろよ、たかがこれだけの事に。
無意識に腕に嵌った時計に触れた。
触れた瞬間浮かぶ、焼けた色の肌、うっすらと浮き上がる鋭角的な筋、そこから続く筋肉のしなやかな盛り上がり。力強く抱き締めた腕の、視界の隅に映る艶消しの黒い腕時計。
僕には少しゴツめのあいつのG-ショック。
明滅する文字、正確に刻まれる時、安堵。
「… かくしてこの対数は」
何やってんだよ。馴染めよ、早く。
上滑りしだした講義の声に意識を戻そう。
不安にさせるのもあいつなら、不安から救ってくれるのもあいつなんて馬鹿げた話だ。
溜息に弾けた泡、浮上する意識に広がる数列の波。
僕は顔を上げてペンを握り直した。
集中する事で、その場を凌いだ。
「よぉ。最近メロンパン頼まないのな」
去年も一緒だったクラスメートが言う。
「さすがに飽きた」
昼休み、戻って来たパン係から注文した袋を受け取りながら僕は言う。
だって、あれは僕が好きだった訳じゃない。僕の好きだった人が、好きだった物だから。
ラム酒の香りのする甘いメロンパンだ。
居なくなってしまった、僕の好きだったあの人がいつも好んで注文していた。まるで会えないその人への渇えた気持ちを埋め合わせるみたいに、甘い行為の後その余韻を静かに味わうみたいに。
あいつの気持ちに僕が歩み寄った日に、僕にもその行為が少し分ったような気になっていた。なのに一体何でこんな事になっちゃったんだろう。何で僕はまたしてもこんなこんがらがった気持ちで毎日過ごさなきゃならないんだろう。
腕のG-ショックに目をやる。
思ってる以上に重症なのかも知れない。
自分の気持ちの方向性に、整理つけてたつもりになっていたのに。
「あっち混ざらねぇ? 」
友達に顎で指された一角じゃ、最近食後にカードゲームをやっていた。地方ルールが出来上がっちゃって殆どオリジナルのゲームとは別物になっちゃっている。混ざって盛り上がってバカ騒ぎするのも悪くないか。
「いや、今日は外で食うよ」
春の陽気の不安定ささながら、僕の気持ちも不安定極まりなくて困る。
へたな距離は、凄く有るかまるで無いかの方が、いいのかも知れない。
とうてい彼の人の甘い気持ちを味わう境地にも達せない僕は、パン係から受け取った焼きそばパンの入った袋を持って屋上へ出た。
時計を交換しようって言ったのは、あいつだった。
同じブランドの違うシリーズ、持ち物の中で唯一僕とあいつの嗜好が被った物だった。あいつが持っていたのは僕が買いたい候補にも挙がっていた物だったし、バイトもしてない僕らだったから、二個も三個も自分じゃ揃える事も難しい。だから何の気無しに僕もその申し出に応じた。
だってサッカーの選手とかよくやってるじゃないか、試合の後にユニフォームの交換とか。僕らだって昔からカードとか消しゴムとか時々取り替えたりしていたから。
でも、ふと思ってしまったのだ。
僕たちの関係は、それ迄とは少し違うものになったんじゃ無かったか。
友達とは違う僕たちが、身につけてる物を交換する意味ってどんなだよ。
そう考え始めたらこれって結構恥ずかしい事なんじゃないかと気付いて、気付いてしまったら妙に気になって、このまま腕に嵌めたまま学校に来たりしてるのはどうなんだよって思って落ち着かなくなって。だから何気に家に置いて来ようかと迷っていた所だったんだけど。
でも結果的に、これはそのままで良かったんだ。
現にこれは僕にとって、一種の精神安定剤になっているんだから。
ちょっと姿が見えないからって、僕は何を。
春のせいにしてしまいたいくらい、本当に不安定極まりなくて困る。
あいつは、どうなんだろう。何を思っているだろう。
焼けた腕に揺れる僕のスケルトン、オレンジ色のG-ショック。
毎日その腕に嵌めてくれているっていうのだけは、知ってるけど。
風が強い。
天気は晴れだけど花粉舞う中肌寒い屋上で昼メシを食べようなんて奴はまだ居なかったようだ。
僕が花粉症でなくて本当に良かった。
こんな風に物理的に一人になれる場所って学校の中ではそうはないからな。
風防室の影に腰を下ろしてパンの袋を開けた。焼けたソースの塩辛い匂い。
青海苔は抜きで紅しょうがと炒めたキャベツが大目、パサついたパンに乾いたみたいな塩っ辛い味のする焼きそばパン。生ぬるく甘い春の乾いた風には何だか合ってる様な気がした。ほら、あんぱんの桜漬けみたいな感じでさ。
気持ちだってメニューみたいに気分で選り好み出来たらよかったのに。甘さだけを好んで味わう事が出来たらどんなに便利か。
大口開けて僕は焼きそばパンを頬張った。
「こんなとこで、何一人でメシ食ってんの」
頭の上に何やら冷たく四角い感触、降りかかった良く知った低い声。
僕は大口開けたまま上目遣いに頭上を見上げた。
捲くったシャツの下に嵌った僕のオレンジ色のG-ショック。
「って、おいおいおいおいっ」
焼きそばと一緒に食べてこそ、この紅しょうがが生きるってもんだろうと僕は思っているのに。
噴出してコンクリの上に散らばっちまった紅いしょうが。炒めたキャベツ、メン。
僕の昼飯、どうしてくれる。
甘さどころか辛さも味わう余裕すらない。
「牛乳あげるから許せ」
「忍者かおまえ」
びっくりしてむせるとか食べ物落っことすとか、色々と有り得ない。
いや、ただ一人で上がって行くとこ見かけたから追ってみただけなんだけど、とあいつは言った。たまにひとりで食べたいときもあるだろ、と僕。
差し入れの牛乳のブリックパックに差したストローの先を噛んだ。
「別に気配なんか消したつもりなかったんだけどな」
「鼻に焼きそば入るっつーの」
あいつは僕の隣に腰掛けて、パンの入ったビニール袋を破った。横目で眺めたコロッケパンを同じの無くて悪いけど、と言ってあいつは半分千切って僕に差し出した。受け取って口に運ぼうとして、また僕はいらない事に気付いてしまう。
なんか、また僕とあいつの並んだ肩のラインが変わってないか。
毎日僕だってカルシウム摂って努力してるのに相変わらず距離が縮まっていないって現実。何時頃からこんな差が出来てしまったのか。
無意識に僕はため息を吐いてしまった。
「まだ駄目か」
「え? 」
「クラス、まだ馴染めないか? 」
「え」
唐突に問いかけられてあいつの黒い瞳を見上げた。
「何でそんな事聞くんだよ」
「何でって」
じっと僕を見下ろし覗き込む黒い瞳。
「新学期始まってから元気ないみたいだから。最近、朝分かれる時に不安そうな顔してるからだよ」
そんなに分り易かったか。
いい加減、悟られないようになりたいものだ。確かに、馴染めていないといえば馴染めていないと言えるけど。
でもそれ、おまえのせいだもん。何でかなんて言えるわけないじゃん。
「まさかと思うけど」
誰かにしつこくされて困ったりしてるんじゃないか、とあいつは重ねて言った。
確かに、僕は小さい頃から集団の中で男にも女にも構われる立場になる事が多かった。ちょっと前までは相手の好意や悪乗りが度を過ごして、僕の自尊心が傷つくような事だってあるにはあった。そういう時、さりげにこいつが守ってくれたりした事も確かにあったんだけど。
それにしても過保護な発言じゃないか?
「大丈夫だよ。もう子供じゃないし」
「本当に」
「しつこいぞ」
相変わらず屋上は風が強い。
つい出てしまった言葉にふっと差す影。
「好きだから、心配してるんじゃん」
コロッケパンを持ったまま、僕は言葉を失ってしまった。
臆面無く、好きだからと言ってしまえるあいつのその素直さに。
僕が黙ったままでいたので、あいつにまた思い違いをさせてしまったらしい。重ねて聞いてくる。
「言えよ、聞くぞ」
「違うよ、そういう事じゃないんだ」
「じゃあどういう事」
僕のせいだが、深刻な悩みが発生してるんじゃないかって思ってるあいつの口ぶりに、どう答えよう。おまえが思っているような理由で僕は困ってるんじゃないよ。むしろ、原因は。
僕の目が、あいつと僕の腕に嵌ったG-ショックの間を行き来する。
発端も帰結も一緒なんだ。
不安にさせたのもおまえで不安から救うのもおまえだ。
おまえの事ぐらいでしか、僕はこんなに動揺したりしない。
本当に、思ったより重症みたいだ。ただ、おまえがいないってだけでさ。
僕を覗き込んであいつは言葉を待ってる。
何だかな。可笑しくなってしまって僕は笑ってしまった。
「笑うとこかよ」
「そう、笑うとこ。あのさ」
明滅する文字、あいつの黒いG-ショック。
「これしばらく借りといたままでいいかな? 」
「いいけど」
「これしてたらさ、平気なんだよな、結局」
「何が」
どう伝わってもいいって思った。
気持ちを選び取ろうなんて無理にするからいけないんだ。
甘かろうが辛かろうが、おまえは僕の安定剤。
「召還したらまた現れろよ、お庭番みたいに」
「は? 」
「おまえが居るって感じがすれば、平気なんだよ」
きょとんとして、それからあいつの左側の頬にえくぼがうっすら浮かんだ。
「ふぅん。そうなの? 」
「そう」
クシャリと僕の髪にあいつが指を絡ませる。僕はその手に頭を預けた。
これくらいが精一杯だ。素直に振舞ってみるのも、難しい。
昼休みが終わる鐘の音。
風は、相変わらず強い。
真昼の眩しさから暗転、薄暗がりの屋上の扉の中へ。
鐘が鳴って、廊下に出ればまた僕たちは違う場所へ分かれる。
戻るべきところへ扉開けて踊り場に出たところで僕は言った。
「今日帰り、図書室で待ってるから、一緒に帰らないか」
今日は四時には一斉下校で部活も短縮される日だった。
帰りはいつもバラバラだから、たまには一緒に寄り道して帰るのもいいかも知れないって思って言ってみた。
唐突に、僕の背にあいつが被さった。
倒れこむように扉の内側の壁に押された。
振り向こうとしたところへ回された腕。
「今日、なんか俺すげぇツイてない? 」
そう頭上で低い声が囁いた。抱き締めた腕に僕は掌を重ねた。
触れる硬い感触は腕に嵌ったG-ショック。
「早く放課後になればいいな」
「うん」
そして僕はまた安堵する。手を伸ばせば届くところにあいつはいつも居るじゃないか。
だから言えばいい、会いたくなれば。
行けばいいんだ、会いたくなれば。
「いつもそんな素直だとかわいいのにな」
こめかみに感じた柔らかな熱。
「な」
すぐに離れた唇に見上げればあいつの頬にうっすら浮かんだえくぼ。
こんな所で。何すんだ。
まずい、何か色々まずい感じがする。
熱が色を付けて体中へ広がっていく、触れたこめかみから。
ああ、もう本当にやっと気持ちが穏やかになったばっかりだって言うのに。
素直になるのも難しい。気持ちのコントロールなんて出来やしない。
しかも、僕は今どこに反応したんだ。素直にって言葉にか、かわいいって言葉にか。それとも触れたあいつの唇にか。
「悪かったないつもかわいげなくて」
春の陽気は不安定で困る。
残りの午後の授業どうしてくれる。
薄く笑ったあいつの気配。
抱き込んだ腕の中であいつの脛に僕の蹴りがとんだのは、言うまでもない。
end.
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